不戦の誓い(2)
【2021年7月28日配信 NO.179】
謎の白馬大人(パイマーターレン)
ー戦争と捕虜ー
福井市 酒井 與郎
昭和十八年(一九四三年)十月一日、伏
見の輜重兵第一一六連隊に入営した私たち
学徒動員組は、十一月一日には早くも中支
に向けて営門をあとにした。わずか一か月
の生活だったが、私はたいした収穫を得た
ように思った。特に、毅然とした寡黙の中
隊長や幹部候補生出身の長谷川少尉と西川
見習士官に、「軍人とはかくあるべし」の
教育を骨身にしみるように教えられたが、
私はこれを昨日のように覚えている。
十一月二十六日、私たちは、私たちの原
隊輜重兵第一一六連隊の駐屯地安慶に到着
した。連隊の留守隊長は、杉本という中年
の大尉だった。常徳作戦に連隊の大半が出
払っていたので、隊内には古年兵の姿も少
なく比較的ノンビリした空気だった。しか
し、訓練は翌日からすぐに開始された。留
守部隊という兵員の少ない関係か、私たち
は当初から古年兵にまじって夜の衛兵勤務
についた。ここで、戦闘における注意点や
体験談を毎回のように古年兵から聞いた。
その中でも嵐兵団の前にいつもたちはだ
かる「白馬大人」の話は、私たちの単純な
戦争観を一変させた。そして、私たちは「
戦争と捕虜」という新しい問題に初めてぶ
つかり、戦争の凄惨さを改めて認識したの
である。
ある年のある戦闘で嵐兵団(第一一六師
団=京都師団)のある歩兵連隊が、敵の奇
襲にあって散々な敗戦となった。その時の
戦いは、負傷者も収容できないほどの大敗
戦だったという。この戦いで、陸軍士官学
校出の連隊旗手の O少尉も戦死したが、も
ちろんその遺体は収容できなかった。とこ
ろが O少尉は、戦死同様の極度の重傷で人
事不省だったが、まだ生きていたのである。
そして中国軍に収容され、両眼は失明した
ものの奇跡的に助かり健康体になったとい
う。
O少尉が中国軍の処置をどう受けとめた
かは別として、重傷者も戦死者も収容しな
いまま退却していった連隊長を恨んだとし
ても、無理のないことである。しかし、ど
う恨まれたといっても、とても重傷者を収
容したり戦死者を確認できる戦闘ではなか
ったという。そんなことをしていたら、連
隊は全滅する以外方法のないほどのひどい
戦いだったらしい。現実はまさに冷酷その
ものである。 O少尉はまさしく捕虜になっ
たのである。その動機・事情がどうであれ、
捕虜は捕虜である。まして将校の捕虜、し
かも陸軍士官学校出の輝かしい連隊旗手の
捕虜としての生きる道はただ一つ、自決だ
けである。
陸軍刑法には当然のように、負傷して人
事不省となって敵の捕虜になった場合の罰
則はない。しかし如何なる事情があるにせ
よ、捕虜となることは軍人最大の恥辱であ
ると、一兵卒にいたるまで当時の軍隊教育
は徹底していたのである。これは、わが国
軍隊における超法規的な軍人最高の倫理規
範でもあった。
いうまでもなく軍人最高の倫理規範は「
軍人勅諭」であったが、軍人の第一歩は実
にこの「軍人勅諭」の暗唱から始まった。
あの長文の「軍人勅諭」を暗唱するという
ことは、決して一朝一夕にできることでは
ないが、当時は一兵卒にいたるまですべて
この「軍人勅諭」を暗唱していたのである。
そしてこの「軍人勅諭」には「只々一途ニ
己ガ本分ノ忠節ヲ守リ義ハ山嶽ヨリモ重ク
死ハ鴻毛ヨリモ軽シト覚悟セヨ其(その)
操(みさお)ヲ破リテ不覚ヲ取リ汚名ヲ受
クルナカレ」と諭(おし)えてはいるが、
捕虜という字句は一切使われてはいない。
私たちが、「捕虜」という字句を文書で
正式に見たのは、昭和十六年(一九四一年)
一月八日に、時の東條英機陸軍大臣が配布
した「戦陣訓」の「生キテ虜囚(りょしゅ
う)ノ辱(はずかしめ)ヲ受ケス」という
文書が初めてである。もちろんこの「戦陣
訓」は、「軍人勅諭」があるのになぜ一中
将如き者が、と当初から極めて評判が悪か
った。しかし、この「戦陣訓」によってさ
らに多くの軍人が悩み、そして自決してい
ったのは事実である。これは、近代戦とい
う複雑な戦争形態による不可抗力による「
捕虜」になる者の激増を物語っているとい
えよう。
O少尉は、不可抗力というよりも、死直
前において中国軍に収容されたのであるが、
このことは、軍人として立派すぎても、決
してそれ以下ではない。そして両眼失明と
はいえ、立派に健康体になったのである。
O少尉は、日本軍の倫理軍律を日夜考えつ
づけたにちがいない。そしてまた、自分の
不可抗力の不幸を嘆いたにちがいない。人
間の思考の多様性はさまざまであるが、O
少尉は「自決の軍律」を考えると同時に、
連隊長・連隊の道義を考えたのである。
「なぜ、収容してくれなかったのか」と。
これは当然の思考であるが、当然のことが
できないこの現実が、戦争の冷厳姓という
ものである。誰が悪いのでもない。「戦争
そのものが悪いのである」と O少尉の思考
がはたらかなかっただけのことである。し
かし、この思考は現在だからできることで
あって、当時としては考えも及ばないこと
であった。まして陸軍士官学校出の連隊旗
手としてのO少尉には、どう考えてもこの
思考は無理である。
純粋培養による悲劇は、当時も今も同じ
である。そして、ここに悲劇が生まれたの
である。 O少尉の大和魂が、一転して連隊
長・連隊に対する怨念(おんねん)と化し
たのである。そしてそれ以降、嵐兵団の戦
闘前面に、白馬にまたがって中国軍を指揮
する O少尉の姿が、しばしば見られるよう
になったという。また、古兵は付け加える
のである。「戦争にきた以上、戦死もしか
たがない。しかし、捕虜にだけは絶対にな
るなよ」と。
私たち学徒動員組はこの話を聞いて、鉄
砲弾(だま)の恐怖と死の恐怖、そして今
また捕虜の恐怖が一つ追加されることにな
ったのである。のちほど私たちは、「白馬
大人」こと O少尉の指揮する中国軍の精鋭
の奇襲を受けることになるのであるが、そ
れはまだこれから一年ほども先のことであ
る。
小社発行・『北陸の燈』第4号より
当講座記事NO.3「不戦の誓い」の続編
〈以下参考〉
陸海軍軍人に賜はりたる勅諭
戦陣訓