非行についての認識
【20202年12月8日配信 NO.82】
子どもが伝えようとしているもの
石川県松任市(現白山市)立
松任小学校教諭 中村 秀人
小学校の教員をしながら、子どもたちとつ
き合っていると、毎日の彼らの表情がとても
気になる。何かを気にかけて表情の暗い子は
勿論だが、何の屈託も無さそうに見える子で
も、大なり小なり様々な悩みを持っている。
あるいは、悩みを抱えているが、明るく振る
舞おうとしていることもある。
家庭では、子どもにとって最も身近な大人
である親の行動や考え方が、親が無意識であ
る場合にも、子どもたちに大きな影響を与え
る。学校では親に次いで身近な存在であり、
影響を与えうる教師と接する。学校でおこる
様々な出来事について、また勉強について、
教師は子どもに一つの価値観を示すことにな
る。そしてまた、学校や地域で子どもどうし
の間におこる様々な衝突、葛藤が子どもたち
に悩みを与える。こうして、子どもたちは生
活していく場において、周りの人間の中でも
まれながら、大人と同じように悩みを抱えて
育っていく。
ある子はその悩みを家族や友だち、先生な
どと話し合い、あるいは自力で解決していく
ことができるだろう。しかし、その問題に正
面からぶつからずに、回避したり、誤魔化し
たりして、成長していく子がいる。回避や誤
魔化しによって、外見的には無事に通過する
ことができたかのように見えても、その子の
意識下にあるこだわりは解決し切っていない。
また、その問題を乗り越えようとして、努力
してみることもなかったわけである。だから、
次の問題を抱えた時に、それを解決する力の
蓄えを確保していない子は、再び回避や誤魔
化し、あるいは逃避がくり返され、内面に「
しこり」が残っていくだろう。
子どもたちは、成長の過程で物理的にも精
神的にも様々な体験をして、失敗をしながら
試行錯誤をくり返して、自己を形成していく。
自分の周囲の環境と関わって自己を形成して
いくことは、実に大変な作業だと思う。一見
平和そうに見える子どもたちですら、その子
の内面には、自分の家庭、学校、友だちなど
が原因となる悩みが宿っている。親や教師は、
内在化しているだけのものならば、子どもの
悩みを他愛ないものとして受けとめがちにな
る。しかし、子どもにとってみれば、解決し
なければならない大きな問題なのである。そ
の問題を、取るに足らないものとして軽くあ
しらってしまったり、あるいは教条的な道徳
観の押しつけを大人がしていくことは、子ど
もに何ら満足な問題解決の糸口を与えないだ
ろう。
また今の子どもを昔の子どもと比べてみる
ことは、あまり意味のないことではあるが、
確かに言えることは、様々な能力や個性を持
った子が少なくなってきている。そして、そ
の個性を周囲の子どもや大人が認めるという
雰囲気がなくなってきている。大人が子ども
に、こうなってほしいという理想像を思い描
き与えることは悪いことではないが、それが
あまりに強すぎると子どもは窒息してしまう。
親や教師が持っている価値観、常識が強く
子どもに伝えられる時、すばらしい吸収力を
持っている子どもたちは、疑問を持つ子が何
人かはいるにしても、自分の中にとりこんで
いく。しかし、そうやって受け身で蓄積され
たものは、生きていく時の力になり得ず、自
分を擁立していく時期には、かえってマイナ
スになる。受動的に作られた「わく組」の中
の人格は、生きるエネルギーのある子であれ
ば、いつか破綻を迎えるだろう。
この破綻は、外見的にはすくすくと成長し
てきて、学校での成績(これは、大人が持っ
ている価値観であり、「いびつ」さを含んで
いるにしても、社会的に認められうるものに
なっている。)も良いとされてきた子どもた
ちが迎えるものである。しかし、社会的に認
められる方向に昇華できるものを持たない子
どもたちは、今日のように既成の「わく組」
が狭まっている状況では、その個性の存在さ
えも脅かされる想いに至っているのではない
だろうか。
前述の破綻を迎えるに至る子どもと、その
過程は異なるが、大人が持っている社会的価
値観が強すぎるということと、子どもが持っ
ている個性の存在理由を大人が理解できてい
ないという点で、原因は同じ所にあるように
思う。
そこで様々な個性を受け入れる余地が社会
にあり、子どもが自分の存在を主張して受け
入れられる雰囲気が周囲にできていれば、子
どもは苦しみながらも自力で克服することが
できるだろう。ところが、勉強や生活のこと
で細かく規範を与え続けられてきた子どもた
ちは、自己の主張・個性をのびやかに外へ現
わすことを経験することもなく、それによっ
ておこる失敗や試行錯誤を体感することもな
い。様々な体験によって、自分自身を培うこ
とを忘れてしまっている。
そして問題を乗り越える力を蓄えることも
経験することもしてこなかった子は、内面に
たまった「しこり」を吐き出し始める。それ
までは、子どもの内部に停まっていた問題が、
子ども自身の力では解決できずに、解決を求
めて救いの手を探ろうとして、子どもの具体
的な行動をよびおこす。その行動は、時には
周囲に対して激しいものとなったり、あるい
は「この子は何を考えているのかわからない」
というように、周囲のものにとっては理解し
がたいというものになる。しかし、それは当
然であって、その子が論理的に考えて解決で
きないからこそ、救いを求めてもがくのであ
る。その行動は本人にも説明がつかない。何
かを訴えたり、求めたりする意識下の行動に
なるだろう。
問題を抱えている子や「しこり」を吐き出
し始めた子に対して、教師は自分の尺度で子
どもを見てしまうことがよくある。もがいて
いる子どもと向き合った時、教師が子どもを
理解できないという事態に直面して、自分の
価値観が通用しないことを嘆き動揺する。教
師は自分自身の価値観、存在を守るために、
自分の殻に閉じこもってしまう。子どもと向
き合って生まれた違和感・不快感を排除する
方向でなく、互いに相容れない領分がどこか
ら生まれてくるものなのか、教師は探らねば
ならないと思う。
教師自身が自分の内面を見て、自分の「わ
く組」を広げて、排除ではなく共感する方向
で見ていかねばと思う。教師が子どもの抱え
る課題に付き添って解決していくことによっ
て、子どもとの信頼関係、つながりが生まれ
てゆく。子どもに付き添うことなしに、教師
が「なんとかせんなん」式の発想で、安易な
その場しのぎの打開策を講じても、子どもと
の真のつながりは生まれないし、子どもが抱
える問題の核心は見えてこない。外に現われ
た行動の激しさだけを捉えて、大人の価値基
準に当てはめて子どもから離れた所で頭を悩
ませている限り、問題の本質は見えてこない
だろう。
小社発行・『北陸の燈』第2号より
「現代の声」講座第10回提言者
テーマ:私の中で ー子どもとの関わりの中でー