298. 忘れえぬ日本人
【2023年4月8日配信 】
斎藤静校長の気骨
福井市 獣医師
酒井 與郎
後の祭り
昭和十三年一月十六日という日は、わが
国今次の大戦にとっても、私たち戦中派に
とっても、絶対忘れることのできない日で
ある。それは、
「帝国政府ハ爾後(じご)国民政府ヲ対手
トセス帝国ト真ニ提携スルニ足ル新興支那
政権ノ成立発展ヲ期待シ……」
とする第一次近衛声明の出た日だからで
ある。日中戦争の戦火は北支(現在の華北)
へと拡大し、その展望がはっきりしないま
ま、戦争相手国(中華民国=国民政府)を
今後相手にしないというのだから大変なこ
とである。
昭和十一年二月二十六日におきたいわゆ
る二・二六事件以後、軍部や右翼の政治的
発言力は、日に日に強くなり、歴代内閣も
次第にこれに引きずりこまれていったのだ
から、時代の流れというものは恐ろしいも
のである。そしてさらに困ったことには、
明日への健全な道しるべたるべき新聞まで
もが、これに同調したのだから、まさしく
当時の日本は「暗夜」だったといっても、
決して過言でない。戦争を謳歌する者は忠
義・愛国の士、これに反対する者は不忠・
非国民、というのだから恐ろしい世の中で
ある。
これはかつて、初代海軍卿・勝海舟が「
忠義の士が国を滅ぼす」と言った言葉通り、
当時の日本国民があまりにも忠義の士であ
り?愛国の士であった?がために、わが国
を敗戦へ敗戦へと追いやったことになるの
である。そして日中戦争が全面戦争に発展
したのは、昭和十二年七月七日におきた盧
溝橋事件である。
同年十二月十二日には中国の首都「南京」
を占領するまでに、事件は拡大したのであ
る。そして、これが後ほど「南京大虐殺」
として問題になるのであるが、史家は、「
虐殺・強姦・略奪・放火等、未曽有の虐殺
行為を繰り広げ、中国軍民二十数万を死へ
追いやった」と記録している。
わが郷土連隊もこの戦いに参加したが、
特に脇坂部隊の「南京光華門一番乗り」は
有名である。また、それだけに戦死者数も
思いのほか多く、戦争悲話があちこちで聞
かれたのである。脇坂次郎部隊長は、その
後これら多くの霊を慰めるべく光華門の土
を持ち帰り、これにて観音像を作って、曹
洞宗大本山永平寺に納め、「光華観音」と
して永代供養することにした、ということ
は永平寺を訪れた人なら誰もが知っている
話である。
日本軍が首都南京を占領したという戦勝
気分が全国にみなぎり、和平工作が一方で
進められているにもかかわらず、政府や軍
の内部には強硬意見をはく者が多く、また
日本政府の提示した和平条件があまりにも
厳しすぎたため、とうてい中国政府の受け
いれられるものではなかった。
そのうち日本政府は和平打ち切りを決定
し、昭和十三年一月十六日、
「帝国政府ハ爾後国民政府ヲ対手トセス」
との冒頭の声明が出されたのである。
これが、日中戦争が長期化・泥沼化する
直接の原因であるが、「勝ってオゴル」と
いうことほど恐ろしいものはない。もしこ
こで日本政府に、軍に、戦争を和平へと転
ずる叡智があったとしたら、日本の敗戦も
なかったであろうし、軍人軍属二百三十万
人の死・一般国民八十万人の死傷・九百万
人の被災・三百万戸の焼失はなかったろう
にと思うのであるが、これはまさしく「後
の祭り」である。
英語は学ぶ必要なし
日中戦争が全面戦争に発展した昭和十二
年は、ちょうど私は中学三年生であったが、
ここで当時の軍の全く馬鹿げた言動を紹介
しておきたいと思う。
当時の中学で最も大事な課目(それは、
上級学校の入試科目でもあった。)は、英
語、数学(代数・幾何)、国漢(現代文・
古文・文法・漢文)、理科(植物・動物・
物理・化学)、歴史(日本史・東洋史・西
洋史)であり、なかでも英語は特に重要な
課目として位置づけられていた。
ところがある日、現役の陸軍少将が、中
学の全職員・生徒を前にして「英語は敵性
語だから勉強する必要なし」と講演したの
である。
当時の男子中等学校以上には、現役の陸
軍将校が、陸軍から派遣されていて(階級
は大尉から大佐級で、一般に配属将校と呼
ばれていた。)、生徒・学生に、一年から
必須教科として軍事教練を教えていたが、
毎年秋になると、その成果をたしかめる陸
軍の査閲(さえつ)というものがあった。
これは当時学校にとっては一大行事で、も
しこの査閲で成績が悪いと講評されようも
のなら、大変なことであった。通常は軍か
ら大佐が査閲官として二、三人の随員をつ
れてくるのであるが、どうしたことかその
年は、陸軍少将の査閲官が来たのである。
今ここで、いとも簡単に陸軍少将という
が、この階級は実に大変な位であった。当
時福井県には、鯖江・敦賀の二ヶ所にいず
れも歩兵連隊があったが、その連隊長は大
佐である。一個連隊四千人以上もいる連隊
の長が大佐であるから、少将という位がど
んなものか、およそ想像がつくというもの
である。
当時私が通っていた福井県立大野中学校
は、一学年二クラス(一クラス定員五十人)
で、一年から五年までで生徒数は四百人ち
ょっとであった。この学校の教練の査閲に、
陸軍少将が来たのだから大変である。私た
ちが、気合も新たに大いに張り切ってやっ
たのは当然である。
査閲官は、私たちのキビキビした動作と
真剣さを、まずほめあげた。そして、これ
なら戦争の将来は大丈夫だ、と断言した。
これでおけばよいのに、少将は、
「英語は、敵性語である! 勉強する必要
なし!!」
とやったものである。これには先生も生
徒も驚いてしまった。それというのは当時
の大野中学校校長は、研究社の『大英和辞
典』の著者として有名な英語界の大御所・
斎藤静校長だったからである。
当時、中学校の校長には、いろんな意味
において名物校長があちこちにいたようだ
が、斎藤校長もその一人であった。斎藤校
長は苦学力行の人で、とにかく大変な勉強
家であった。当時中学生は一応町のエリー
ト?だったが、校長は、この中学生をつか
まえて「このドタワケ」「このボンクラ」
「このドビャクショ」と言うのが常だった。
もしこれが、普通の先生だったら大変なこ
とになるのだが、斎藤校長だけは別だった。
校長に何を言われても、「校長は別なんだ」
と、とにかく別格扱いである。
査閲官がこの間の事情を知っていて「英
語不要論」をぶちあげたのかどうか全く不
明だが、とにかく大変なことを言ったもの
である。
校長は、査閲官が帰るやいなや、全校生
徒の緊急召集をかけた。そして、現在日本
がいかなる立場にあるかをまず説き、そし
て何回も海外に出た見聞から、日本がいか
に技術力において劣っているかを例をあげ
て力説した。また、中学で教える英語は、
勉強のための英語ではない、海外から優れ
たものを学ぶための英語だ、と大風呂敷を
広げて生徒にハッパをかけた。そして査閲
官を「あのバカが」とか、「あのドタワケ
が」と口を極めてののしったのである。最
後に校長は、
「今こそ頭を冷やして、静かに勉強するの
だ!!」
と、その訓話を締めくくった。
校長の言うことはともかく、英語を勉強
しなければ上級学校に入学できないのだか
ら、私たちは今まで通り英語学習に精を出
した。
しかし、世の中の現実は、査閲官の言っ
た通りになるのだから、当時の日本は、完
全な軍主導型の敗戦街道を一直線に進んで
いたと言えよう。
敗戦を経て、時移って昭和五十九年春、
中曽根首相は「学校教育の改革」を声高高
と叫び出したのであるが、私はこれを聞い
て、不吉な予感で背筋がゾーッとした。中
学時代の少将を思い出したのかもしれない。
しかし、それはさておき、時の権力者が教
育に口を出して、いいことが一度としてあ
ったかどうかである。私の小・中学校で受
けた教育は、国にだまされた教育だった、
と前回に書いたが、昨今の教育の変質もま
た「いつか来た道」をあゆみつつあるよう
に思えてならない。
社会科教科書の現在の混乱ぶりはどうで
あろうか。政府が、政治家が、学者が、ど
う叫ぼうと、どう語ろうと、日中戦争は日
本の中国侵略であったことは間違いない事
実である。そして、そこでは国土の蹂躙、
家屋の破壊と放火、中国人に対する虐殺と
強姦、略奪が、八年間の長きにわたり、日
本軍の手によって繰り広げられていたので
ある。これが侵略でなくして何であろう。
しかし、これとて中曽根首相の語り口によ
れば「それは大東亜共栄圏確立のため、や
むを得なかったのである」ということにな
りかねないのである。「権力者が、教育に
口を出すほど危険なものはない」と、私は
再度強調したいと思う。
そしてまた、世の親や一部の学校教師ま
でが、政府のこの首唱に同調する様を見て
「いったい歴史は何のために存在するのか」
と、私は反問しないわけにはいかない。親
が子供の出世を願うことは、決して悪いこ
とではない。しかし、それとて平和があっ
ての話である。子供を塾にまでやって、そ
の出世を願っている間に、いつのまにか徴
兵制になっていたとするならどうするのか、
と思う。
日中戦争長期化へ
「爾後国民政府ヲ対手トセス」と声明を
出したことにより、日本政府は、戦中を和
平に転ずる道を自ら閉ざしたことになるの
であるが、近衛首相は「惟(おも)うに事
変の前途は遼遠であります。これが解決は、
長期にわたることを覚悟せねばならぬ」と
説くのである。これはまさしく戦争終結へ
の無展望を語って充分と言うべきであるが、
およそ展望のない政治というものがあるの
だろうか。何ともやるせない時代であった。
かくして日中戦争は、さらに長期化へと進
むのである。
一方、世界の情勢は、中国の国民政府支
援へと足並みをそろえるようになるのであ
るが、わが国はこれとは逆に、昭和十三年
七月にはソ連と張鼓峰事件を、さらに昭和
十四年五月にはノモンハン事件を引きおこ
すのである。そして昭和十六年十二月八日
には、ついに日米戦争へと突入するのであ
る。
これはどう考えても、まともな国のやる
ことではないが、当時の政府は、必然的な
国力の弱小を知りながらも、悪魔に魅入ら
れたように、大戦争への道を選ぶのである。
ここに私は、「戦争というものの業の怖ろ
しさ」を痛切に感じられてならない。
和平への拒否声明による日中戦争の泥沼
化、日米戦争への突入、そして世界を敵と
し敗戦への道を急ぐ日本、その時ちょうど
私は、徴兵適齢期であった。
さかい ともお
1922年福井県大野市生まれ、福井市在住
第1回・第19回「現代の声」講座提言者
第1回テーマ:不戦への提言
第19回テーマ:差別の構造と歴史
小社発行誌『北陸の燈』第3号より
当講座記事NO.65再掲
当講座NO.3、179、180、181にも
酒井與郎さんの記事掲載
酒井與郎さんと同世代の方々の
登場する当講座記事