251. 非情の「泣き踊り」・ねぶたが起源
【2022年5月24日配信】
まず国民に謝罪を
-心無き無責任な国会議員たち-
八王子市 高岡 芳朗
本日をもって東京都でコロナ規制が解除
される。その根拠の説明も充分とは言い難
い。一昨日(5月22日)、小泉進次郎代
議士はマスクを外し、聴衆に向けて街頭演
説をした。
「本当はマスクをしなくてもいいのに周
りがしていると、どうしてもしないといけ
ない空気ができて、一歩前に世の中を動か
すのが難しい状況にある。政治が決断する
ことで、賛成と反対はあるかも知れないが、
マスク着用の有無は個人の判断に任せる。
そういう環境をつくって世の中を前に動か
していかないといけない。それも政治の仕
事」
と語る。コロナは政治だったのか。
同日の関口宏のTBSテレビ『サンデー
モーニング』でも、「みんな自分で考えず
に同調圧力でマスクをしている。科学的知
見に基づき感染対策をしてこなかった」と
放映。コロナは視聴率だったのか。
どの口が言う、なにをいまさらである。
もっと早く言ってくれれば、どれほどの人
たちが助かったかしれない、苦しまなくて
すんだことか、政治やマスコミに携わる人
たちは知らないのだろうか。
「てのひらがえし」とはこのことである。
これまで国民にさんざんマスク着用をあお
りながら、反省や謝罪の言葉もなくこのよ
うに語ることは、放映することは、無責任
の極みである。また、そう語る人物、放映
者の言動は信頼できない。次はワクチン接
種についても同様に語るのは眼に見えてい
る。
小泉代議士たちは、どうしていまの発言
やいまの放映に至ったのか、なぜこれまで
心無い嘘をついてきたのか、その過程を余
すところなく説明すべきである。そうした
うえで国民に謝罪するのが人の道というも
のである。
小泉代議士は自民党員であり、閣僚・環
境大臣も務めた人物である。小泉代議士は、
この街頭演説の前に、国会議事堂や首相官
邸、内閣府庁舎、厚生労働省・環境省合同
庁舎、自由民主会館(自民党本部)に向か
っても門前演説をしてきたのだろうか。
また、そのほかにも他の各省庁や各政党
本部、各国大使館、皇居、経団連、日本医
師会、日弁連、ファイザーほか各製薬会社、
日教組ほか各労働組合、カトリックほか各
宗教団体、朝日新聞ほか各新聞社、NHKほ
か各放送局など、小泉代議士が門前演説を
行う場所はたくさんあるようだ。
その門前演説を自身の背中から、聴衆に
聴いてもらうという姿勢があってこそ真心
ある政治家といえるのではないだろうか。
〈参考〉
2022.5.22 東京スポーツ
小泉進次郎氏脱マスクに意気込み「それも政治の仕事」
森鷗外『最後の一句』より抜粋
「お前の申立には嘘はあるまいな。若し
少しでも申した事に間違があつて、人に
教へられたり、相談をしたりしたのなら、
今すぐに申せ。隱して申さぬと、そこに
並べてある道具で、誠の事を申すまで責
めさせるぞ。」佐佐は責道具のある方角
を指さした。
いちは指された方角を一目見て、少し
もたゆたはずに、「いえ、申した事に間
違はございません」と言ひ放つた。其目
は冷かで、其詞は徐かであつた。
「そんなら今一つお前に聞くが、身代り
をお聞屆けになると、お前達はすぐに殺
されるぞよ。父の顏を見ることは出來ぬ
が、それでも好いか。」
「よろしうございます」と、同じような、
冷かな調子で答へたが、少し間を置いて、
何か心に浮んだらしく、「お上の事には
間違はございますまいから」と言ひ足し
た。
佐佐の顏には、不意打に逢つたやうな、
驚愕の色が見えたが、それはすぐに消え
て、險しくなつた目が、いちの面に注が
れた。憎惡を帶びた驚異の目とでも云は
うか。しかし佐佐は何も言はなかつた。
次いで佐佐は何やら取調役にささやい
たが、間もなく取調役が町年寄に、「御
用が濟んだから、引き取れ」と言ひ渡し
た。
白洲を下がる子供等を見送つて、佐佐
は太田と稻垣とに向いて、「生先(おい
さき)の恐ろしいものでござりますな」
と云つた。心の中には、哀な孝行娘の影
も殘らず、人に教唆せられた、おろかな
子供の影も殘らず、只氷のやうに冷かに、
刃のやうに鋭い、いちの最後の詞の最後
の一句が反響してゐるのである。
『最後の一句』全文 - 青空文庫
2022.5.27
文明アナリスト・新井信介さん発信動画
わたしたちは「かごめ」から出られるか
当講座記事NO.35 安政の絶叫
河原市屋文右衛門
高橋屋弥左衛門
越中屋宇兵衛
能美屋佐吉
原屋甚吉
平田屋彌兵衛
北市屋市右衛門
義民伝承地図 [地図を開く]
大杉栄『生の拡充』青空文庫
〈小社推薦文〉〈後記〉
ある者にとっては、コロナは財や虚名を
生む商品である。その商品の品質は分か
らない。商品の本当の価値も分からない。
パチンコの「もや」のようなものである。
その品質や価値が明らかになったときに、
その商品を作った人や作らせた人、買っ
た人や売った人、使った人や使わせた人、
広めた人や広めさせた人たちはこれから
どうなるのだろうか。どう考えるのだろ
うか。おそろしい世界が待っているのか。
あるいは希望の光は待っているだろうか。
東北のねぶたや各地の盆踊りなどの起源が
「泣き踊り」にあるならば、当講座記事の
NO. 224で紹介した、哀愁ただようおわら
風の盆の「夜流し」こそ、わがふるさとを
わが郷里の人々を守るために、理不尽かつ
不当な死をとげざるをえなかった死者たち
への感謝、謝罪、追慕、供養の表明では。
また、そうして見ると、当講座記事の NO.
235で紹介した北京五輪の女子個人・フィ
ギュアフリーのカミラ・ワリエワの演技は、
五輪というものに対する「泣き踊り」だっ
たのではないかと思えてくる。
(当講座編集人)
〈小社推薦映像〉
当講座記事NO.224から
越中八尾おわら風の盆
当講座記事NO.235から