255. 小説「心あり」(4)
【2022年5月29日配信】
広瀬 心二郎
大学を終えて金沢に戻り、最初に就職し
したのは、電子部品を製造する会社だった。
そこにいささか知恵が遅れていると見える
少女が工員をしていて、直子はいつもその
子といっしょにいて、なにくれとなく世話
をやいているようだった。翳りのあるまな
ざしが印象的だった。
ところが、木村が勤めはじめてからじき
に姿を見なくなってしまった。リューマチ
に似てはいるが、原因のつかめない体の痛
みに悩まされ、実はずっと以前から病院通
いをしていたものらしい。
そんな境遇の人なら、つかみようもなく
病んだ心も悲しみの一点に絞りきって、自
分なりの情を注いでいけはしないかと考え
た末に手紙を出したら、こんな体だから人
並みな暮らしは諦めていますがと、返事が
届いた。
あれもまだ春には間のある、底冷えのす
る日だった。風が鋭く肌を刺す金沢の街で
待ち合わせたら、退院したばかりだという
直子は短いチェックのスカートをはいてき
た。
そぞろに歩くうちに、温室で開かせた花
をところ狭しと並べている店先で直子は立
ち止まり、生花を買うのだろうと待ってい
たら、手にして出てきたのはひと目でそれ
とわかる、バラの造花だった。あれほどた
くさんの生きた花が人を誘っているのに、
つくり花を求めたその心がどうにも訝しか
った。みずみずしさの微塵も感じられない
そのバラを唇に触れんばかりに高く抱いて
薫りを嗅いでいるようなうっとりとした横
顔に、なぜ造花をと問いかけると、生きた
花だったらじきに枯れてしまうでしょうと、
色の薄い唇からつぶやくように漏らしてい
た。
百万石祭りも近い、もう夏の盛りを思わ
せる陽射しの降り注ぐ日にひと月ぶりに顔
を見たら、別人のように太っていて驚かさ
れた。半袖のブラウスから白く肉のついた
腕が覗いているが、やはり何か健康な太り
かたではなかった。しかし沈みがちだった
顔には珍しく笑みが絶えなかった。
「からだのぐあい、いいようやね。ずいぶ
んにこにこしている」
「なるべく笑ってることにしたの。街で近
所の顔見知りの子どもに会っても、その子
がわざと道をはずして避けていくみたいな
ことが前からあってね、それは私のほうに
原因があったんやなって思うことにしたの。
こんなふうに笑顔でいると、あれやこれや
の悩みがずいぶん軽いように思えてきてね。
なんだかからだの痛みさえ懐かしいような
気がしちゃって」
どこにいても、そこは自分の場所ではな
いと思っているようなはかなさが、直子の
仕草にはいつもまつわりついていたはずだ
った。細い目をしていて、透きとおるよう
な肌に翳りをほのかにたたえている。顎の
線などもいかにも弱々しい感じがあったか
ら、見違えるほど太った直子の体に、かえ
って痛々しさも、そして神の悪意とでもい
ったものさえ感じていた。そして、実は自
分が惹かれていたのは、以前の直子のはか
ないような様子にほかならなかったのだと、
今更のように気がついていた。
「ちょっと太ったね」
もしかしたら、自分とつき合いはじめた
ことも、直子の体にこんな変化をもたらし
た一因かと思いつつ、その所作のひとつひ
とつになにやらふしだらとさえ言いたいよ
うな肉感がまつわるのを感じ、つい言葉に
嫌悪が透けて見える言いかたになったらし
い。直子は敏感に目をしばたき、上の空の
手つきでストローをいじりながら、
「わたし、夏にはいつもちょっと太るの。
もう、肩がこってね」
「どうして」
「男の人には、わからないわ」
ああ、と、豊かになった胸に視線をすべ
らせると、こちらはみすぼらしいほどの幼
さへ退行してしまったような心もとなさに
とらわれる。
「ねえ、ちょっと気がついたんやけど」
「なんやろ」
「あなたからの手紙ね、もらうたびに筆跡
がちがうような気がするんやけど」
「ああ、そうなんや」
「自分でも気がついてるの」
「うん、右上がりのとか、平らなのとかね」
「どうして」
そう聞かれても弱った。気分しだいでと
簡単には片づけられないものだった。人目
には、別人の筆跡ととられかねないほどだ。
どちらがより気に入っているということは
なく、むしろどちらにも落ち着けない。い
つも揺れている。ペンを握り、構えると妙
な強張りにとらわれ、それだけのことで疲
れてしまう。
礼子のあの事件以来、何をするのにも、
ずっとそうだった。自分を見詰める視線が
邪魔をしてどんな行為にも軽やかに入って
いけなかった。そして深く自分を責めつづ
ける心から、体のほうは、ひたすらに逃げ
ようとしている。そんな感覚があり、だか
ら、無論、あの頃は死というものも幾度も
身近に引き寄せて感じていた。筆跡は、根
の深い、そんな病いの痕跡のようなものか
もしれなかった。
「二重人格」
「うん、そうや、そのとおりやね」
言葉の上ではなにげなかったようなそん
なやりとりが、しかし、喫茶店を出て肩を
並べて歩くうちに、木村の中に重く積もっ
ていった。
実はもう、直子との結婚というものを引
き寄せて考えていた日々だった。体を病む
者としての彼女こそが、自分を心の深い空
虚の底から引き上げてくれそうな予感があ
った。
しかし、たぶん、この人にも俺のことは
理解できない。街路樹の葉が黒々と見える
ほど強い初夏の光にさわやかに照らされた
金沢の街の風景の中で、直子の心がこちら
を探っているのがわかる。
君は病気なんやから、俺の心を覗いたり
せずに、その病いの中にこもっていればい
いんじゃないか。人並みな暮らしなんか、
諦めているはずやろが。………体は悪いけれ
ど、心は健康だわ。いつの間にか、ふたり
のそんなやりとりを胸の中に描いている。
思いが内へこもると、木村は怒っている
ような表情になる。その時も、直子にそん
な面相を盗み取られていたにちがいない。
「高校のころ、アルバムやノートや、卒業
文集や、過去を思いださせるもんはみんな
燃やしたんや」
直子にではなく、独り言のように、そう
口にしていた。
「どうして」
「そうやって、いちど死んでしまわんと気
がすまんかった」
「どうしてそんなことを考えたの」
子供の頃の写真や、虚栄心ばかりのにじ
む作文やらを抱えて庭に降り、ものに憑か
れたような目になって火をつけた木村を、
両親はすくんだようになって、縁側から見
詰めていた。何をしとる、尋ねる父親に背
を向けたまま、これでいいんだと独り言の
ようにつぶやいていた。
写真の中では、いつも奇妙な笑みを浮か
べている少年だった。自分の在り処がわか
らずに仕方なく笑っている、あるいは見ら
れているという意識に金縛りになって、い
よいよ舞い狂いはじめる、その寸前のよう
な。そして縁側から降りた父親が、息子が
とうとうおかしくなってしまったと、そん
なため息を漏らすのを感じながら、火に焼
けて丸まっていく写真の自分の顔にひたす
ら、醜い醜いと、あの時は憎悪の言葉を投
げかけていた。
バスに乗り込み小さく手を上げた直子の
顔にひどく疲れた様子が見え、木村は虚し
い笑みを口もとに浮かべていた。思ったと
おり、それから直子からはなんの連絡もな
くなり、もう秋に入ろうとする頃にたまた
ま街で出会うと、背の高い若い男と連れ添
っていた。視線が合うと木村の名前を呼ん
で立ち尽くし、人前もあらばこそ、いきな
り泣きはじめた。
「なんや、つきあってたんか」
男が戻ってきて声をかけると、
「つきあってなんかないわよ」
撥ねつけるように答えて、あまり似合わ
ない流行の服に包んだなにやら無残なほど
に肉のついた体を屈めるようにして、顔を
おおって泣きつづけた。
その男が誰なのか、どんなつき合いをし
ているのか少しもわからなかったが、木村
はなにもかもわかった気になって歩き去っ
た。怒りに似たものが胸に兆していないか
と探ってみたが、むしろ何かほっとしたも
のが淡く心の底を流れているばかりだった。
悲しみが濃く凝縮すると、かえって心も
体も美しく、糸を吐く前の蚕のように透き
とおる。そんなことを生身の人間に求める
ほうが無理というものだ。不幸な運命を背
負っていても、それなりに自足し、世間並
みなことを求めるものだ。そう言い聞かせ
て、直子とのことはそれきりで終わったは
ずだったのに、いまだに忘れた頃になると
電話が入り、木村の心をすこしばかり削り
取るようにして、また直子はどこかへ消え
てしまう。
直子の中で、時の流れが止まってしまっ
ているのだろうか。病院に出たり入ったり
して、とうに世間の時の動きの届かないよ
うなところに心がとどこおってしまった。
だからいつまでも、はたち前のような声色
で電話をよこすのか。そうではあるまい。
そんな様子ではなかった。なお病んでいく
体をあまりに速やかに通り過ぎていく時の
流れに呻き、そのたびに木村とのあいだに
切れ残る細い糸をたぐり寄せる。きっとそ
うなのだろう。
木村が襖を開けて入ると、礼子は電話の
ことは何も聞かず、炬燵が熱いのか汗ばん
だような顔をテレビに向けたまま、木村の
視線を受け流し、大儀そうに電気釜の蓋を
開けた。そしてやや潤んだ目を向けて、も
うお酒はいいの、と気怠げに尋ねた。腹が
大きくなっている。あとふた月足らずで生
まれるのだ。
飯から立ちのぼる匂いの中になまなまし
い精気に似たものを嗅ぎ当て、木村は礼子
に茶碗を渡しかけ、思い直して自分で盛り
取っていた。
礼子が花壇の縁で折った右足は、今では
人目にわからないくらい、わずかに引きず
って歩くだけになっている。
二年あまり前、白山への登り口で思いが
けず再会したのだった。
誰もが、実はそれぞれの傷を抱いて生き
ている。揺らぎつつ、あるいは深く壊れて
いても、あまりに在りきたりの言葉だが、
なお生きていることのささやかな美しさや
喜びに潤わされ日々を送っているのだ。よ
うやくそう思えるようになり、なにかしら
世の中との自分の距離がつかめて、木村の
日常に笑みが戻っていた頃だった。
山を歩くようになったのも、一因かもし
れない。近くの低い山から始めてしだいに
凝り、高みに咲く可憐な花の写真なども撮
るようになった。あの日は白山の雄姿を仰
ぎながら、擦れ違うハイカーにぎこちない
挨拶を投げかけていたら、声をかけられ、
そこにしっかり山歩きの身支度をした礼子
が立っていた。
「ああ、君か。………あのころはほんとう
に悪かったね。でも、元気そうでよかった」
それは長いあいだ、いつか礼子に会える
時があればと繰り返し思い浮かべていた詫
びの言葉の、ほんの一部分でしかなかった
が、万感の思いをこめていた。連れがある
ようなので、そのまま微笑んで見送ろうと
する木村に、
「木村君、ずいぶん悩んだんだね、ごめん
ね」
と、まぶしげな目になって、熟した女の
笑みを投げて、
「木村君、まだひとりなの」
と礼子は尋ねたのだった。その目が、実
は彼女のほうもずっと木村へのさまざまな
思いをかたわらに置きながら過ごしてきた
のだと語っていた。
--あんなことを言いながら、どうせま
た直子からは当分、音沙汰もなくなってし
まうのだろう。そしてまた、とんでもない
時分になって、わかりますかと若々しい声
で電話をよこすのだろう。
立ち上がる湯気と飯の匂いに、ああこれ
が暮らしの匂いやな、とつぶやいて礼子を
笑わせてから、ふと箸を置き、ちょっと直
子のことを話しておかなければと、木村は
考えていた。
(了)
ひろせ しんじろう
1950年長野県生まれ
文芸同人誌「層」(長野ペンクラブ) 同人
著書・小説『金澤夜景』(小社発行)他
長野県須坂市出身、長野高校・富山大卒
埼玉県狭山市在住