252. 小説「心あり」(1)
【2022年5月26日配信】
なくしてしまった うばわれてしまった
優しさ 悲しみの情は
どこまでとりもどせるのか
作家 広瀬 心二郎
もしもし、と木村が電話に応じると、な
にやら思わせぶりな沈黙がしばらく続いた
あとで、わかりますかと聞かれたが、その
声の響きにこもる若さに首を傾げていた。
「ちょっとわからないんやけど」
「直子です」
「ああ………」
しばらく言葉を継げず、背後で襖を閉じ
ようとしている妻の気遣いにかえって気を
とがらせながら、どうしてたんやねと、か
つて直子とつき合っていた頃の口調をよう
やく引き寄せていた。
「こっちはあい変わらず。いまのは奥さん
なの。結婚したの」
「ああ、なんとかね」
「おめでとう。それじゃ、迷惑じゃなかっ
た」
迷惑ならやめておくという様子ではなか
った。
「そっちはどうやね、嫁にいったのか」
もっと心のこもった話しようがありそう
なものだと自嘲するが、胸の内でふくらむ
思いがなかなか素直に言葉にならない。
「ううん………。いろいろあって。でもそう
いうことぜんぶ話さなきゃ、電話しちゃい
けない」
「そんなことはないけど」
手ごわいような語調に押されて、語尾が
曖昧になっていた。
すでに所帯におさまっている、子も産み
育てているというような、たしかな暮らし
からおのずとにじみ出るたくましさや、家
事に追われての疲れとか、すさみとかの入
り混じった主婦の声ではない気がする。以
前と変わらず、周囲におびえて内にこもり
がちな心の有りさまを感じさせる話しぶり
だと耳が受けとめていた。
「ちょっと前に、兄に車で病院に乗せても
らっていった時にあなたを見かけたの。仕
事の途中やったみたい」
木村は犀川の近くにある会社で事務をし
ている。外に出て営業の手伝いをする日も
あった。直子は野々市の町で木村を見たと
言う。
「それじゃ、いまはあの辺に住んどるんや
ね」
「さあ、どうでしょ」
昔もときおりそんな言いかたをしていた。
からかうような口調が木村の苦笑いを誘っ
た。
「まだ、からだはよくないの」
「………腎臓がね、だめになって、ひとつと
っちゃったの」
一転して声の様子が変わり、涙を含んで
いる。そうした感情の起伏の大きさに振り
まわされたこともあったと、ほろ苦い思い
がよみがえった。
何か慰めを言わなければならないと言葉
を探したが、慰めを口にする権利のような
ものもないな、と口ごもっている。
「ねえ、これからもときどき、電話をかけ
たり、手紙だしたりしてもいい」
木村に妻があることを、もう失念したよ
うなことを言い出す。
「ああ、かまわんけど」
「ありがとう。電話してよかったわ」
それだけで、自分のほうの連絡先を告げ
るでもなく、電話を切ってしまう。
もう三年ほど前になる。同じように、不
意に似たような中身の電話をよこした。そ
の前には、たしか一年ほどの空白があった。
そのたびごとに、またじきに連絡をよこす
ようなことを言っておきながら、なしのつ
ぶてとなった。
木村はもう三十を越え、向こうも二つ若
いだけだ。それなのに、初めて出会った頃
の、はたちそこそこの日々からそのまま抜
け出してきたような声で受話器の向こうに
現われ、また消えてしまう。何にこだわっ
て隠すのやら、所在もわからない。母と、
兄がひとりあると聞いていた家族ごと金沢
からどこかに移ってしまったらしく、覚え
ていた電話番号を押してみたこともあった
が、すでに通じなかった。
その間の空白が、どうにも読み取れない。
もしかしたら、とうに人妻としての暮らし
を固めているが、木村とのそっけなかった
別れへの恨みがたまさか燃えて、こちらの
暮らしぶりを覗くかたわら気持ちを掻きま
わしてやろうかと、ものに憑かれたような
視線をダイアルを押す指先に絡みつかせて
いる。そんなふうに思い浮かべてもみたが、
言葉の端々に恨みがましさが濃く見え隠れ
しているようでもない。
それにしても、身を固めたのかと尋ねた
ら、それらをすべて話さなければならない
のかと聞いてきた、あの含みはいったいな
んなのだろう。
「どこかへ勤めたん」
「ううん。いまは働いてないの。………あな
たのいってる会社にでも雇ってもらおうか
な」
かなり前のあの日もたしか、今日と同じ
で間違い電話かと思うような長い沈黙のあ
と、おずおず問いかけるような声をしばら
く聞かせたあとで、一転からかうふうにそ
う言って木村を笑わせ、しばらくまた沈黙
し、今度は切羽詰まった口調にあらたまり、
今日明日にでも会えないかと尋ねた。北陸
鉄道の、ある駅前で待っているからと念を
押されて、つい行くよと答えてしまってか
ら、暗澹となった。
会社の同僚に誘われて顔を出したスナッ
クの女と、体を求め合うだけの、渇いたつ
ながりを続けていた頃だったからだ。電話
を切ってから、今更会ったところでどうな
るものでもないやろがと、木村の返事を真
に受け口もとに笑みをたたえている直子を
思い浮かべて、その遠い姿に、つぶやきを
投げかけていた。スナックの女のたくまし
い太股も思い浮かべ、もう体があちらに執
着してしまっているんだよと、露わなつぶ
やきも重ねていた。
明くる日はよりにもよって寒の戻りで、
一日じゅう北風が吹きすさんだ。
スチームも効かないような寒さの中、待
合室で待ち惚けているだろう直子の様子を
思い描いては、もう俺は来ないから早く家
に帰ってくれと胸に叫ぶように繰り返して、
昼から酒に逃げていった。
そういえば、唐突に電話をかけてくるの
が、たいていこのあたりの季節だ。春はた
しかに近づいているものの、まだ光の内に
とどまっていて、どうかするとその期待感
の分だけ、人の肌に風がなおのこと冷たい。
そして春の予感がかえって人の寂しさを露
わにするのだろうか。今夜も花冷えの夜だ。
直子はいつ重い状態に陥ってもおかしく
はない病身だから、約束をすっぽかしたあ
とは、さすがに悔いがまつわりついた。こ
ちらから覚えていた電話番号を押してみた
のはその時のことだ。もう通じなかったの
である。
すぐに恨みの連絡が入るでもなく、半年
もしてからようやく電話が来て、正直にほ
かに女がいたからと謝ると、意外にさばさ
ばと、例のからかうような口調で許した。
体の具合も幾分いいようだった。その時に
は、近いうちに会いたいとはっきり言って
いたから、スナックの女にも包み隠さず話
して手を切ってもらい、相手は病身だから
世間並みの男と女の暮らしには入れなくと
も、形だけでもいっしょになろうかと真摯
な心づもりをして待っていたが、一週間は
おろか半年経っても何も言ってこなかった。
やはり具合が悪いのか。それとも病身ゆえ
の遠慮があるのか。あるいはここまでのい
きさつから屈折がたまっているのか、推察
はしてみるが、なにしろつかまえようがな
かった。
あの時にぜひ来てくれと言っていたのは、
縁談でももち込まれていたのかもしれない。
忘れもしない。あの日は寒風の中で待ち惚
けている直子の姿を思い浮かべ、一方では
スナックの女の豊かな体を描きながら、自
分をめぐるふたりの姿を楽しむような笑み
がいつの間にか酒にほてった頬に酷薄に浮
かんでいるのに気づき、ああ俺はまたこん
なことをしていると低く呻いて、なおどろ
どろと昼酒をあおりつづけていた。
(つづく)