330. 北前船に生きた銭五(後編)
【2024年2月22日配信】
銭五亡きあとに思う
若林 忠司
銭五の墓
銭五の墓といえば、金石の本龍寺にある
清水家の墓が知られている。これまで五、
六回は訪れている。
本龍寺のほかに隠れ墓があることを初め
て知ることとなった。ひとつは長徳寺(金
沢市彦三町)。もうひとつは野田山にある
墓であった。初めて野田山の隠れ墓を訪れ
たのは、2009年11月10日であった。当時
のことは、自著『金沢を知る20章』 (石川
サニーメイト、2010年)に記されていた。
金沢市の山側環状道路脇の野田山墓地に
向かって三メートルほど入ったところに、
「銭屋五兵衛隠れ墓」と刻まれた石柱が建
っていた。墓石は高さ六十センチ、幅三十
センチあまりで苔むしている。文字が刻ま
れているかどうかも識別できないほど風化
していた。
野田山の隠れ墓について著者の麻井紅仁
子さんは、『朧の刻』(銭屋五兵衛記念館、
2013年)で、「野田墓地のほうはどうも、
明治期の銭五を敬愛する商人が供養塔とし
て建てたものらしいといわれるが、今とな
ってはそれを証明するものはない」と述べ
ている。真偽は不明で訪れる人も少ないと
いえる。
金沢の街中にある墓が長徳寺にある。銭
屋清水家の先祖代々の菩提寺であることか
ら、銭屋五兵衛の墓があっても不思議では
ない。
境内の左手のブロック塀の前に三角形の
おにぎりのような墓石がある。後ろにふた
つの小さな墓があり、銭屋与三八、銭屋八
郎と刻まれている。
遺骨について調べると、1964年 4月 4日
の北國新聞に郷土史家の水島莞爾氏が銭五
の遺骨であることを確認したと伝えていた。
水島氏の調査について、田中喜男著『加賀
能登史蹟の散歩』(北国出版社、1981年)
にも書かれている。
『歴史の群像6』 (集英社、1984年)で
杉森久英氏が、「一族が塩漬けの死体を貰
い受け、金沢鍛冶町の長徳寺に改葬したと
いわれている」と記している。 隠れ墓は
銭五の悲惨な最期を伝えるもので、波乱に
富んだ人生であったことを知る。
銭五の面影
銭五の名をとどめた場所として、「銭屋
五兵衛記念館」「銭五の館」「銭五公園」
や「銭五銅像」がよく知られている。
私が初めて「銭五開き」「銭五橋」を訪
れたのは、2116年 8月 7日の昼ごろだった。
河北潟東部承水路沿いに広がる水田地帯は、
銭五の壮大な夢の跡である。
周辺の豊かな自然を目と肌に感じながら
歩く。水路の水音が静寂な風景の中で響く。
干拓前には岸の近いところに「銭五杭」が
波間に見えていたという。
「銭五橋」へ続く「銭五通り」の傍らに
葦でつくられた舟が置かれていた。子ども
のころ、フナ、ウナギ漁で乗った舟を思い
出した。
不思議な因縁
奇縁である。銭屋五兵衛の生涯で、一族
を悲運に陥れた河北潟埋め立て事件が思い
出される。
「嘉永のころ銭屋開きに反対した内灘村
民の子孫が、河北潟干拓を一つの条件とし
て闘争したのは不思議な因縁といえましょ
う」と、『能登と加賀-石川県の歴史-』
「銭屋五兵衛」 (ヨコノ書店、1963年)で、
著者の菅野八郎氏が述べている。
表現の違いはあるが、若林喜三郎氏も『
新版・銭屋五兵衛』(北国出版社、1982年)
で、「奇しき因縁であった」と同様のこと
を述べている。縁とはまさに不思議なもの
である。
銭五の夢の跡
河北潟の埋め立て事件といえば、銭五関
係の資料には必ずといっていいほど記され
ているよく知られた事件である。
嘉永五年(1852年) 、埋め立て新開工事
の作業中に大量の魚が変死。銭五が毒を流
したとの疑いをかけられる。さまざまな憶
測が飛び交ったことだろう。一族と工事関
係者が捕われる。
銭五が毒を投入したという疑惑に関して、
「銭屋五兵衛記念館」を訪ねたときに、北
陸近代医学の祖である加賀藩医・黒川良安
の調査報告が掲示されていて、「めったに
起きないことだが、潟水の自然腐敗が原因
であろう」とここには書かれている。
同様のことが、前掲書『新版・銭屋五兵
衛』にも述べられている。黒川良安の調査
結果がこれからも受け継がれていくことだ
ろう。銭五は牢死、財産はすべて没収、悲
惨な最期をとげる。
河北潟干拓の歴史
ここで干拓の歴史をふりかえってみる。
1963年に事業が着手、1986年に干拓が完
了する。実に二十四年の歳月を要した。
1953年からの内灘基地闘争の結果、河北
潟の干拓事業をかちとり、「銭五の夢」が
実現することになる。
現在、潟の約三分の二が畑や酪農地、蓮
根田として利用されている。あの埋め立て
事件があったことなど想像できない。まさ
に「銭五の夢」の跡である。
かつての河北潟は、北陸地方最大の潟で
あった。森本川の河口を中心に潟の南岸に
大場、八田、才田の村落が広がっていた。
前述したように、フナ、ウナギ漁の舟に乗
った子どものころの記憶が残っている。河
北潟の思い出がよみがえってくる。
内灘町総合公園にある展望台から、かつ
ての潟の全景が眺望できる。 2020年 10月
16日、標高六十四・四六メートルの円形の
展望台に登る。内灘の町並み、日本海、河
北潟が一望できる。三百六十度見渡せるポ
イントで、雄大な景色が広がっている。
銭五像を見て
金石の日本海近くの「銭五公園」に「銭
五銅像」が建つ。体は金沢のほうを向いて
いるが、顔は横に向け、はるか日本海を眺
めている。後ろ手には望遠鏡を持ち、海を
睨んでいる。威風堂々としたいでたちに圧
倒される。
「銭屋五兵衛記念館」には「北前船体験
コーナー」がある。1843年に造られた千五
百石の御手船、常豊丸の模型(実物の四分
の一)が展示されている。文字や絵による
理解だけではなく、当時の航海の様子を知
る。
常豊丸
かつて北前船時代に活躍した銭五。「海
の百万石」と呼ばれた銭五の夢は、惨劇の
始まりであったといえる。加賀藩の財政を
支えた銭五の最期は悲劇的で、だれしも悲
運な死を哀れむだろう。
金石は私自身にも思い出の多い懐かしい
町である。銭五についてまだまだ知らない、
分からないことばかりである。これからも
学びを深め、銭五の全体像に一歩でも近づ
きたい。
〈参考〉