332. 私のふるさと歴史考(2)
【2024年2月29日配信】
富山名物「時鐘」
郷土史家 廣田 克昭
越中富山の名物と言えば、売薬と神通川
の船橋。それともう一つ城下に鳴り響く「
時鐘」があったことは意外に知られていな
い。この時鐘(ときのかね)の残欠が、市
内柳町の地にある富山藩主ゆかりの於保多
(おほた)神社に伝わっている。
於保多神社は、前田氏の氏神菅原道真を
祀り、もと柳町の天満宮と称して領民の信
仰をあつめた。社前の石造りの橋は、明治
維新によって廃城となった富山城大手門の
橋を移したものだという。また、祭神には
天神様のほか初代藩主前田利次、二代正甫
(まさとし)、十代利保を祀っており、境
内に正甫公頌徳碑が建っている。このデザ
インに利用されているのが破損した時鐘の
残欠である。復原すれば直径1メートル近
くもあるだろうか。郷土史家の故瀬川安信
氏は、昭和三十八年の「時の記念日」に際
して、次のような由来書きを付している。
「富山第二代藩主前田正甫ハ、貞享三年三
月安養坊山ニ於テ、城内ノ時鐘ヲ鋳造スル
ヤ自ラ工ヲ督シ、城下ノ分限者吉野屋慶寿
ソノ蔵スル所ノ古金類ヲ精錬中ニ投入シテ
工ヲ授ク、□ルニ及ビ之ヲ城内ニ曵入レ領
民ヲシテ時刻ヲ知ルニ便ナラシメタリ、爾
来鐘聲□々トシテ三里四方ニ亘リ名鐘トシ
テ天下ニ憶セラレシカ、明治三十二年ノ大
火ニ焼損セリ」
貞享三年(一六八六年)藩主正甫が安養
坊(現在の呉羽山公園東口のあたり)で城
の時鐘を鋳造させたこと、この事業に豪商
吉野屋慶寿(けいじゅ)が私財を投じたこ
と、明治三十二年の大火でこの名鐘が破損
してしまったことがここに書き留められて
いる。
ところで、富山県立図書館にはこの由緒
書きのもとになったとみられる史料が残っ
ている。表紙に『有坂吉野屋慶寿日記』と
ある。関連の箇所を抽出してみると、時鐘
鋳造のことがより具体的になる。
一、貞享三丙寅年三月十四日、安養坊山
に於て、御城の時鐘鋳させられ候に
付き、右小屋場御出来、同年閏三月
二十七日今日、時 鐘いよいよ鋳さ
せられ候。但し是までは寒江自得寺
の鐘を引上げにて、時鐘に換りおり
候なり。
一、右鐘鋳候に付き、右鋳人金沢より釜
屋彦九郎御呼び寄せ、殿様御見物の
ため御出であそばされ候、もっとも
当日未の刻より吹きかかり、たたら
二つ建て候、且たたら踏み三十七人
富山のものなり。今日、赤飯、御酒
御肴下され候、このみぎり、御意を
以て慶寿にも御供仰せ付けられ候に
つき、先前より貯蓄致しおき候古金
類、あまた残らず長持入れにて相運
ばせ、右鋳立てるたたらの中へ打込
むの由、代々子孫の口碑に申伝えお
り候こと、ちなみにいはく、この才
許係り人は清水孫左衛門、笠原三郎
右衛門相勤め候こと。
時鐘の鋳造に際し、藩主自らが安養坊の
鋳造小屋へ出向き、金沢から招いた鋳物師
釜屋彦九郎の指導のもとに、二基の炉で人
夫三十七人が力を合わせてたたら(鋳物に
用いる大きなふいごう、空気を送る装置)
を踏んで、火をおこしたという。材料とな
る古金類を投入した吉野屋慶寿は、この事
業のいわばスポンサーで、元禄期にかけて
御用商人として藩の財政に大きな影響力を
持った人物である。
こうして完成した時鐘は、富山城に置か
れて、以後ずっと時を知らせ続け、その美
しい響きで越中の名物と人々から慕われる
ようになった。
しかし、この名鐘も明治三十二年(一八
九九年)八月の大火によって、時鐘台が焼
け落ち使用不能になってしまった。このと
き焼け残った一部分が於保多神社に伝わっ
ているわけだが、『富山市史』の記録をた
どると、時鐘の伝統がもう一つ別の形で、
今日まで受け継がれていることがわかる。
時鐘が大火で破損した翌年は、鐘に代わ
って口径三インチ野砲を導入し、正午を知
らせる号砲を開始した。しかし空砲の音が
強すぎると苦情が多く、約七ヶ月で中止さ
れた。
そこで、こんどは明治三十四年十二月よ
り、東京両国の火薬商玉屋から花火の製造
技術を導入し、毎日正午に限ってドン花火
を打ち上げるようになった。場所は現在の
電気ビルが建っているあたりで、当時は神
通川の中洲であった。ここに打ち上げ用の
小屋場があったという。
昭和十四年、戦争による火薬節約のため、
約四十年間続いたドン花火は中止された。
以後は市庁舎の屋上などでサイレンを鳴ら
すことになり、サイレンの時代が戦後も長
く続いた。
そして戦後の混乱からようやく脱し始め
た昭和三十一年、市民のドン花火をなつか
しむ声により、時の記念日に限って正午を
期してドン花火を打ち上げることになった。
時の記念日のドン花火は、この年から毎
年富山市の伝統行事として打ち上げられて
いる。だが、六月十日正午のドンの響きに、
かつての富山名物時鐘やドン花火の時代を
思いおこす人は、もうほとんどいない。
小社発行・『北陸の燈』第4号より
当講座記事NO.7再掲
神通川の船橋