331. 私のふるさと歴史考(1)
【2024年2月24日配信】
「五百羅漢」-北前船が運んだ話-
富山市教育委員会 廣田 克昭
富山市の西方、呉羽山の中腹に曹洞宗の
寺院長慶寺(富山市桜谷)がある。この境
内に約五百体の石仏が東に向かって数段に
並んでいる。立像で三尺七寸、坐像で三尺
三寸ほどの羅漢像である。一体一体がそれ
ぞれ異なった表情をもち、物言いたげな口
もとをした何とも人間くさい奇妙な石仏の
群れが、訪れる人の興味をひく。
かつて、これらの像は山上の釈迦堂から
長慶寺へ下る坂道の両側に並んで、釈迦の
説法を聞く形式になっていたが、明治三年
の廃仏毀釈の折に倒されたり、幾体か紛失
したため、昭和二年の修復で現在のように
並べかえられた。
この五百羅漢の造立には、富山城下の廻
船問屋黒牧屋善次郎の発願によって数百人
の同志があつまり、寛政十一年(一七九九
年)から嘉永の頃まで五十年余りかかった。
製作地は石材(花崗岩)の産地佐渡であっ
たと考えられる。佐渡の椿尾(真野町)と
小泊(羽茂町)に良い石切場があり、文化・
文政期(十九世紀はじめ)の頃には石工の
村として知られ、越中・能登を中心に多く
の石仏が売り出された。越中の港西岩瀬と
松前(北海道)を結ぶ商船が、佐渡に立ち
寄って数体ずつ石仏をのせ、岩瀬から神通
川を木町の船着場(今の松川が当時、神通
川本流だった。)までさかのぼって船を着
け、運んだと言われる。
願主黒牧屋善次郎以下寄進者の名を記し
た『五百阿羅漢尊者寄進録』が、今も長慶
寺に保存されている。その中に「佐州小木
湊柳屋伝五右衛門」「佐渡国新秋町山城屋
勘十郎」という名が含まれているが、佐渡
での石仏製作の受注や積み出しに協力した
商人であろう。
羅漢信仰は小乗における釈迦の高弟崇拝
に端を発し、羅漢は、阿羅漢のサンスクリ
ットのアルハットの訳で「尊敬を受けるに
値する人」という意味である。すなわち、
釈迦の教えを守り、一切の煩悩を断絶して
理想郷に至った超人をさした。ところが、
他者救済と慈悲の大衆の世界では、羅漢思
想は禅、とくに老荘思想と結びつき、現世
否定的・個人主義的な信仰から、煩悩の克
服とともに個性の自由を認め、肯定にも否
定にも、有にも無にも執しない新たな境地
をひらいた。ここでいう羅漢は、それぞれ
生の自我(個性)をもちながら、なおかつ
一切のとらわれから解き放たれた自由と無
の世界に遊ぶ人である。そして大乗仏教が
釈迦の分身とみられる多くの如来や菩薩を
生んだように、十六羅漢あるいは十八羅漢
の崇拝から五百羅漢の崇拝がおこった。
日本では江戸時代になると各地で五百羅
漢が造像された。例えば石の羅漢群像では、
川越市喜多院(埼玉県)、加西市北条(兵
庫県)の五百羅漢などが有名である。また、
木彫では八木町清源寺(京都府)の木喰(
もくじき)の作品(十六羅漢像)がおもし
ろい。これらには、元来の羅漢の相貌から
開放された人間味あふれた顔がある。何と
も言えないユーモア、民衆の中にある何気
ない笑いとくつろぎがそこに漂う。それは、
近世日本の庶民の力に依る新しい一つの信
仰の誕生であった。彼らは父母や近親者の
霊をとむらうため幾人かあつまって結縁し、
私財をもちよって、造像を市井の彫刻家に
託した。
ところで、こうした五百羅漢造立の気運
など、庶民の信仰と文化の自由な表現は、
産業発展と商品流通の拡大による町人階級
の経済的台頭を背景にしている。長慶寺の
五百羅漢造立には、富山の豪商黒牧屋が願
主となり、彼のもち船が運搬に一役買った。
当時、日本海側の海運に「北前船」と呼ば
れる船が従事し、北陸、東北産の米を大阪
へ運んだり、あるいは鯡肥買い入れのため
松前との間を往来していたが、従来の領国
経済圏を超えた彼らの活動を介して、庶民
の精神文化に大きな変化がもたらされた。
北前航路の発達によって造立が成った長
慶寺の羅漢像には、こんな話が語り伝えら
れている。
「佐渡に菖蒲舞(あやめのまい)という
柏崎から流れ着いたひとりの遊女がいた。
世をはかなんで出家し良寛尼と名のって後
は、若き日夜毎にちぎりを結んだ多くの客
の面影をしのんで画帳に写していた。この
画帳を佐渡の石工が借りうけ、モデルにし
て羅漢石像を刻んだ」
という。
また、先年秋田の男鹿半島をめぐった折、
北陸から来たと知って宿の主人が話してく
れた。男鹿駅のある船川からさらに南下す
ると、海に面して切り立った岩山がある。
能登山と呼ばれ、春には全山が自生のヤブ
ツバキにいろどられるというこの岩山に、
北前船に乗り組んでいた能登の若者と男鹿
の娘との悲恋伝説が語りつがれていた。
「椿の実を持って必ず戻ってくると約束
して能登に帰った若者との再会を信じて、
娘は恋人を待っていたが、約束の二年間が
過ぎても若者は戻らず、若者がうわさどお
り遭難して死んでしまったのだと思い込ん
で、能登山から海に身を投げた。四年目の
春にようやく思いがかなって、椿の実を持
って娘に会いに来た若者はこれを知って嘆
き悲しんだ。若者は、能登山の娘の墓のま
わりに椿の実を蒔いて彼女の霊をなぐさめ、
能登へ帰っていったが、やがて、椿は芽を
ふき全山をおおうまでになった」
という。
能登山の名はこの伝説に由来し、この椿
は自生のヤブツバキの北限ということで大
正年間に天然記念物に指定されている。
北陸の港を出た松前通いの船は、途中各
地に立ち寄りながら遠隔の人々との交流を
深めたようである。五百羅漢と佐渡の遊女、
能登の若い船乗りと椿の花を愛する男鹿の
乙女、おそらくこれ以外にも、遠く庶民の
夢とロマンをのせて北前船が日本海を往き
かったであろう。そこには、来たるべき自
立の力を秘めた近世庶民の精神的解放があ
ったように思われる。
古来富山では「亡き父に会いたくば長慶
寺へ」という言い伝えがある。父親の面影
は五百羅漢の石像群をさがせば、必ず見つ
けることができるという信仰である。だが、
静かな笑いの表情をたたえた羅漢さんの前
にたたずむとき、何よりもまず、封建支配
の緊縛と搾取の下で、底流の如く黙々と貯
えられていた庶民のエルギーを感ぜずにい
られない。
小社発行『北陸の燈』第2号掲載
当講座記事NO.2再掲