354. 広島被爆軍人の記
【2024年8月6日配信】
ヒロシマの回想
加賀市 建設業 七尾 政治
昭和二十年八月六日、日曜日、その日も
朝から焼けつくような真夏の太陽が輝いて
いた。陸軍の現役兵として私は広島の兵営
で、前夜の空襲警報も解除され、緊張から
解放されて衛兵交替の申し送りをしていた。
朝八時である。微かな爆音と共に、米国
が誇るB29の機影が、銀色に青空の中に
見えた。B29を広島の上空に見たのはも
う数回、やや慢性化の感でいたのであるが、
衛兵交替時でもあり一瞬緊張して機を見上
げた。
高度一万、交代終了、八時十五分! 突
然、日光をあざむく閃光が、一瞬、皮膚を
焼く灼熱とともに炸裂して目を眩ませた。
と同時に耳を聾する百雷同落の如き大轟音
と、人をも吹き飛ばす大爆風が、間髪を入
れず広島全市を震撼させたのである。無我
夢中、先を競って営庭の一隅の防空壕に飛
び込む時、この目に映ったのは、市の上空
に渦を巻いた紅蓮の炎の爆雲が、巨竜のよ
うに発生して昇る姿であった。いわゆる『
きのこ雲』である。無気味なその雲に向か
って、「また爆発するぞー」と怒号する者
もいた。もくもくと次から次へと火を吹い
て湧くその雲は、風を巻く音をたててその
夕刻まで消えなかった。
灼熱の閃光と爆風によって、爆心地から
約二・五キロの半径内の家屋は、ことごと
く将棋倒しに倒壊した。爆発三十分後には、
二千度の高熱をともなった閃光によって、
全市は一斉に火災が発生した。径五寸もあ
る火の塊が、きのこ雲から無数に落下して、
屋根の上で飛び散るのも見えた。全市は炎
と煙に包まれて、倒壊した家屋の中から辛
うじて逃げた市民の群れは、雪崩のように
広場や郊外へと走ったのである。普通の爆
弾ではない。たった一発で大広島が、一瞬
にして火の海になろうとは。憶測が憶測を
生み、全市が不安のどん底に陥った。
かつてない新型爆弾であろう。私は、防
空壕の中で、右手甲と鼻下に火腫(ひぶく
れ)ができているのに気づいたが、処置す
る考えも暇もなかった。中隊の水上勤務の
兵隊が裸で作業中に被爆して全身火傷(や
けど)となって次から次へと運ばれてきた。
胸も背も火傷を負っている彼らは、伏すこ
とも仰向くこともできず、重心なく坐って
苦闘していた。手を施す術もない痛々しい
姿だった。水を求める力も弱い彼らに戦友
は水を与えた。その日の夕方から翌々日ま
でに、重傷の彼らはほとんど死亡した。か
わいそうな最期だったと、見守った戦友の
話しだった。
私の火腫は二か月後の復員までには、幾
分の色素を残して外傷は治った。また、ほ
とんどの兵が私と同様に火腫を生じた。露
出部分に直接閃光が当たった皮膚が、大同
小異に火腫となったのである。
中隊が部隊負傷者の収容と市民の救援活
動にはいったのは、やや動揺の鎮まった午
前十時頃だったと思う。私どもの兵舎は、
倒壊をのがれたものの三十度ぐらい傾いた。
無論、窓硝子は一枚もない。足の踏み場も
ない状態になったけれども、火災が発生し
なかったのは何よりだった。私たちは爆心
地の方向へ急行したが、兵舎から一キロ地
点で既に火がすさまじく、市民の避難で驚
天動地の場となっていた。
比治山の宇品寄りで市民の誘導や救援活
動にわれを忘れた。市民に「兵隊さん、兵
隊さん」と飛びつかれて叱咤激励した。逃
げ惑う市民のほとんどが火傷を負い、焼け
ただれた夏服の肌も露わな跣(はだし)の
ままだった。地上に落ちた無数の電線が足
を奪い転びつまずき、その有様は、日本滅
ぶの様相だった。
救援活動にはいって最初に私に飛びつい
て来た二人の少年。それこそ灰の中から出
て来た頭の毛を焼かれた少年は、散髪屋で
被爆して家とは反対の方向に逃げたと息き
れぎれに語った。郊外の避難所に行くよう
に指示したが、後髪を引かれる思いだった。
あの子どもたちは、どうなったのだろうか。
中心地から外へ外へと猛火は拡がる。炎と
真夏の太陽と放射能による火傷、裸同然の
夏服。白昼炎に追われる市民の大人も子ど
もも、その顔は尋常の形相ではなかった。
高層ビルから嘗めるように吹き出す炎と煙、
紙屑のように燃える住宅。全市一斉の火災
は、広島の空を薄暮のように暗くした。そ
の夜も一晩中火災は続いた。
私たちは、避難した市民の治安に一睡も
なかった。南瓜(かぼちゃ)の蔓が延びた
畠だったのが妙に忘れられない。不安にお
ののく人々が、「また空襲はあるのだろう
か」と再四問いかけるが、私たちにも知る
術はなかった。私は故郷のことが気になっ
た。今頃は広島と同じ運命にあるのではな
かろうか。私の召集後、あとを追うように
して応召した父。子どもと女だけの家族は
大丈夫だろうか。心中、秘かに共の無事を
祈った。軍から支給の乾パンをかじる放心
の市民、それすら食えない負傷者に、衛生
兵は白い薬を塗っていた。猛火の炎は中天
に達し、それらの人々を赤く浮きぼりに染
めた。
広島、最後の炎の長い一夜は開けた。翌
七日、猛火は広島すべての一木一草に至る
までことごとく焼き尽くし、駅前のビル群
が黒焦げの姿で一階の根っこから丸見えに
なったのには驚いた。全市を包んだ猛火の
前にはすべての機関も機能も全滅した。日
本、否、世界の歴史に、一瞬にして全市全
滅の戦争記録はかつてあっただろうか。視
界のすべてが焼野が原である。戦争と化学
の恐ろしさに慄然とした。後日、この広島
を原子砂漠と人は形容した。
私たちは負傷兵を除く全員、治安と救援
に余燼と熱気の市内に出た。比治山の下で
焦げた電車の中に、乗客の焼死体が破れた
窓から見えた時、これが現実かと自分の目
を疑った。焼けた消防車、飴のように曲が
った線路、洞穴のような日赤病院。多くの
患者はどうなっただろう。昔、大本営のあ
った五層の天守広島城も跡形もなかった。
広島は川が多い。その川に灼熱を避けて
飛び込み息絶えたおびただしい死体。燃え
跡の家屋の中にも死体の頭が見えた。これ
らの収容作業や焼却火葬は、広島在住の陸
軍部隊のすべてが従事した。約一週間、私
たちもこの作業に従事した。異臭を放つ腐
乱死体の無残さに、現役兵を自負した私た
ちが、夜間、屋外の厠には独りで行けず、
戦友に同道を願ったことなど軽度の神経衰
弱になったのは、私一人ではなかった。
焼け跡の門柱やトタン板に、立ち戻った
人々が離散した家族に安否や消息を消し炭
で書いてあった。右往左往する放心の市民
の姿に、十日後の終戦を待たず、私たちは
敗戦の予感を膚で感じたのである。………
体重七十キロの私の重心を失わせた爆風、
火を吹いたきのこ雲、救いを求めて飛びつ
いた灰だらけの少年、収容所の筵(むしろ)
に呻いた負傷者、集積所に並べた死体をか
き分けて不明の肉親を必死に探す人々。あ
の日の広島の追憶は尽きない。広島の惨禍
は私の網膜と鼓膜からは生涯消えないだろ
う。
当時、広島ではこの爆弾をピカドンと名
づけた。爆発瞬時をとらえた印象として現
在もその代名詞となっている。世界最初の
原子爆弾は市民軍人あわせて二十万の命を
奪い、負傷者は二十万とも二十五万人とも
いわれた。続いて九日には長崎市にも原爆
が。長崎市の惨状も広島同様だったことは
想像に難くない。
私は二年前の八月六日、広島市主催の被
爆者慰霊式に招かれて、平和公園で開かれ
たこの式典に参列して、非業の死を遂げた
犠牲者に、同じ被爆者として心からの黙祷
を捧げたのである。参列した多くの人々が、
立ち昇る香煙のその中に、友や肉親や知己
の面影を幻の如く見たであろう。当時まだ
二十三歳だった私も「われ長らえり」の感
懐を、青年の日、国家の干城として過ごし
た一か年のなつかしい想い出の地、復興な
った広島で、しみじみと味わったのである。
私どもが厳しい軍律の日々を送った兵営跡
も訪れたが、昔を留める面影は更になく、
時の流れを無性に感じたのである。そこに
は平和な文化都市として鉄筋の小学校が建
ち、戦争を知らない子どもたちがプールで
水飛沫をあげていた。
原爆の恐ろしさを身をもって体験した広
島市民が、世界の平和を祈り、核兵器の廃
絶と全面完全軍縮を世界に訴える慰霊式に、
参加した人々と共に、平和の願いを更に深
めたのであるが、核兵器はますます量的拡
大と質的高度化の一途を辿り、限定核戦争
や先制攻撃論が台頭し、人類はまさに核戦
争の危機に陥ろうとしている。原爆の過酷
さを体験した広島市民、否、日本人は、慄
然とする当時を回想する時、核戦争には勝
者も敗者もなく、ただ全人類の破滅をもた
らすものでしかあり得ないということを、
全人類に向かって血涙のほとばしる雄叫び
で訴え続けなければならない世界の代表で
あり、世界の旗手であらねばならぬと深く
感じたのである。
原爆資料館の写真や資料を見て、当時の
ヒロシマが髣髴として思い出された。真夏
の太陽を受けて光る無気味な原子雲、暗い
影を落としながら北西に広がるその下に核
時代の原点となったヒロシマの、三十万と
も四十万ともいわれる市民の慟哭や呻き声
が、当時、米軍が撮した写真を透かして、
海鳴りのように私の耳底に聞こえる気がし
てならなかった。
「ヒロシマは、単なる歴史の証人ではない」
「ヒロシマは、人類未来への限りない警鐘
である」
私は、荒木武広島市長が、全世界に向か
って声高く読みあげた宣言の一部を、独り
心して繰り返した。
睡蓮 氷見市 十二町潟水郷公園
2024.6.6 木偶乃坊写楽斎さん撮影
時事通信
小社発行『北陸の燈』第4号より
当講座記事NO.11再掲
〈参考〉
当講座記事NO.247から