471. お金から命の時代へⅩⅢ
【2026年8月1日配信】
来たる時代への提言
NO.469、470の最新記事順
今年6月の仏エビアンG7サミットの期間中に
李明玉訳
「西郷は西南の役で死んでいない」
当講座記事NO.319から
毎日新聞・西部本社の高杉孝ニ郎(富山県
出身)編集局長が辞表とともに提出した同
社社長への「進言書」(井上靖と対極の姿勢)
「その日まで戦争を謳歌し、扇動した大新
聞の責任、これは最大の形式で国民に謝罪
しなければならない。本社は解散し、毎日
新聞は廃刊、それが不可ならば重役並びに
最高幹部は即時総退陣する」
1945年8月15日井上靖 (社会部記者・
金沢市の第四高等学校柔道部出身)執筆
翌8月 16日付け毎日新聞大阪本社発行
「毎日新聞」社会面 (2面) トップ記事
「玉音ラジオを拝して」
十五日正午ーーそれは、われわれが否三
千年の歴史がはじめて聞く思いの「君が代」
の奏でだった。その荘厳な「君が代」の響
の音が消えてからも、ラジオの前に直立不
動、頭を垂れた人々は二刻、三刻、微動だ
にしなかった。生まれて初めて拝した玉の
御声はいつまでも耳にあった。忝(かたじ
けな)さ、尊さに身内は深い静けさに包ま
れ、たれ一人毛筋一本動かすことはできな
かった。幾刻か過ぎ、人々の眼から次第に
涙がにじみあふれ肩が細く揺れはじめてき
た。本土決戦の日、大君に捧げまつる筈の、
数ならぬ身であった。畏(かしこ)くも、
陛下にはその数ならぬわれら臣下の身の上
に御心をかけさせられ、大東亜戦争終結の
詔書をいま下し給われたのであった。
ーー帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニ
アラス 爾(ナンジ)臣民ノ衷情モ朕善ク
之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨(オモム)
ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万
世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス 朕ハ茲(コ
コ)ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ
赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
玉音は幾度も身内に聞え身内に消えた。
幾度も幾度もーー勿体なかった。申訳なか
った。事茲に至らしめた罪は悉(ことごと)
くわれとわが身にあるはずであった。限り
ない今日までの日の反省は五体を引裂き地
にひれ伏したい思いでいっぱいにした。い
まや声なくむせび泣いている周囲の総ての
人々も同じ思いであったろう。日本歴史未
曾有のきびしい一点にわれわれはまぎれも
なく二本の足で立ってはいたが、それすら
も押し包む皇恩の偉大さ! すべての思念
はただ勿体なさに一途に融け込んでゆくの
みであった。
詔書を拝し終るとわれわれの職場、毎日
新聞社でも社員会議がニ階会議室で開かれ
た。下田主幹が壇上に立って「詔書の御趣
旨を奉戴するところに臣民として進むべき
ただ一本の大道がある」と社員の今日から
進むべき道を説けば、上原主筆続いて「職
場を離れず己が任務に邁進することのみが、
アッツ島の、サイパンの、沖縄の英霊に応
える道である」とじゅんじゅんと声涙共に
下る訓示を与え、最後に鹿倉専務また社員
のこれまでの「闘い抜く決意」を新しい日
本の建設に向けることを要請した。われわ
れの進むべき道は三幹部の訓示をまつまで
もなくすでに御詔勅を拝した瞬間から明ら
かであった。
一億団結して己が職場を守り、皇国興建
へ新発足すること、これが日本臣民の道で
ある。われわれは今日も明日も筆をとる!
井上靖はこの後、同社学芸部副部長となり、
1950年に『闘牛』で芥川賞を受賞し、翌年
同社を退職。日本の有名作家となる。
田岡嶺雲 高知県高知市出身
宮武外骨 香川県綾歌郡綾川町出身
桐生悠々 石川県金沢市出身
「義を見てせざるは勇無きなり」論語為政第二24
子曰「非其鬼而祭之、諂也。見義不為、無勇也」
義が貴い人道であることを知りながら、これを
実行しないのは勇気がないものである。
(岩波広辞苑)
人としてなすべき正義を見知りながら、なそう
としないのは真の勇気がない意気地なしである。
(大修館新版漢語林)
当然なすべきことであるということを知ってい
ながら、これをしないのは勇気がないのである。
(角川漢和中辞典)
悪を知りつつ善と正を行なう意はありやなしや。
(小社)
(ちくま学芸文庫、2018)
飢えながら
ルソンの荒野
さまよいつ
一人二人と
死んで逝く
敗戦つゞき
マラリヤに
罹りし兵等
朦朧と
暗い瞳よ
いま何處
飢えながら
遠き家郷を
夢に見て
一人二人と
死んで逝く
國を発つとき
日の丸の
旗の波間に
妻と子の
顔が浮かぶよ
なつかしき
飢えながら
ルソンの野末
マラリヤの
兵は呟く
太陽が
黄色く見えると
熱高く
一人二人と
死んで逝く
暗い瞳よ
いま何處
飢えながら
ルソンの山野
渉りつゝ
樹の実、草の根
喰いつくし
一人二人と
死んで逝く
野生の胡麻の
一粒を
逝けし友らに
供えたり

れた。母は「越前勝山の人だった」とされ
ている。幼くして神童と評されたが、後に
「道昭という僧侶に見出されて出家した」
と伝わっている。道昭とは遣唐使として唐
に赴き、玄奘三蔵のもとで修行した高僧だ。
ご存知のように玄奘三蔵は六二八年意を決
して、太宗李世民の許可の下、天竺を訪れ、
貴重な仏法を唐へともたらした人物だが、
三蔵はこのとき天山を越えてその北側、現
在キルギスのイシククル湖畔の町スイアー
ブをわざと経由してインドへ向かった。そ
の途中に、日本列島から本国へ帰国した晩
年のタルドゥ(聖徳太子)と会っていると
思われる。玄奘はインドから戻った時、洛
陽では高句麗遠征に出かける太宗李世民の
大兵団を目撃している。
道昭はインドから唐に戻った三蔵の下で
十一面観音心経を学んだ。西突厥の首府キ
ルギスのスイアーブに戻った太子と会った
のが玄奘三蔵、そしてその弟子となったの
が日本列島からの留学僧道昭という繋がり
からも泰澄の出自が窺われるのだ。六九六
年、道昭の指導で越知山に籠って修行した
泰澄はまだ十四歳だったが、十一面観音心
経を身につけた。白山信仰において十一面
観音が信仰されてきた理由はここにある。
タルドゥ・天武の思いを継ぐ大津皇子の子
として生まれた泰澄は、高市皇子(たけち
のみこ)が殺害されるという政変の中、出
家という手段で、その生命が保証され、来
たる日に備えたのである。
對峰傾菊酒 峰に対ひて菊酒を傾け
臨水拍桐琴 水に臨んで桐琴を拍つ
忘歸待名月 帰るを忘れて名月を待つ
何憂夜漏深 何ぞ憂へんや夜の漏として深きを
從四位下治部卿境部王
長屋王邸での宴 霊亀3(717)年頃
『懐風藻』から
草の戸や日暮れてくれし菊の酒 芭蕉





