454. 湯の人(その10)
【2026年4月9日配信】
河津桜
加藤 蒼汰
花冷えのする日だった。からだを温め
に私はいつもの銭湯へ出かけた。そこで
いつもの老人に出会った。無口な人で挨
拶をかわすだけの人であったが、その振
る舞いにはどこか気品を感じさせるもの
があった。八十歳を越えているようにみ
える。
その日は気分が良かったのか、風呂上
がりに老人は「せっかくだから、ちょっ
と花見にでも行きませんか」と珍しく声
をかけてくれた。
川ぞいの堤防、満開の桜並木を歩いて
いると、その一角に花が枯れかかった木
が数本ばかりあった。「これは梅ですか」
と花の知識も何もない私が尋ねると、老
人は「それはカワヅザクラといってね、
早咲きの桜だよ」 と教えてくれた。そし
て 「こんなところにもあるなんて」とつ
ぶやいた。
しばらく歩くと老人は「どこかでいっ
ぱいやりませんか」、 とこれまた珍しく
誘ってくれた。連れられて行ったところ
は老人の行きつけの小料理屋だった。
カワヅザクラに出会ったせいなのか、
老人も私も深酒をしてしまった。風呂上
がりのせいもあったのか、二人ともから
だがふらふらになってしまった。老人は
盃を右手に持ちそのままテーブルにうつ
伏せになってしまった。そして、そのま
まの姿勢の老人の口から私は老人の思い
がけない告白を聴いた。
老人は若い頃、心中をはかったことが
あると言う。彼女の誘いで静岡の自殺の
名所へいっしょに行ったが、直前に怖ろ
しくなって彼女だけを滝壺に落として自
分は逃げ帰ってきたのだと言う。そんな
話を聞いて私も怖ろしくなってきた。
その時ふと太宰治の死が私の頭をかす
めた。太宰もそれに近いのではないかと。
山崎富栄から心中の誘いをうけた太宰は
本当は死ぬ気もないのに面白半分に川へ
行ったのではないだろうか。山崎の執念
の力は太宰の思惑を超えるものがあり、
太宰のからだを決して離さなかったので
はあるまいか。あるいは入水前にすでに
太宰はふらふらになっていたのか。
老人は独白が終わるとそのまま眠って
しまった。店の主人にあとを託して私は
よりいっそうふらふらになりながらも、
もう一度カワヅザクラの前に立った。
参考
小島香奈子朗読
石川さゆり『天城越え』