293. 湯の人(その5)
【2023年2月23日配信】
ユミちゃんの選択
加藤 蒼汰
私はときどき自宅近くの喫茶店に行く。
店主のマスターは競馬で一文無しになり、
そのために会社も首になったが、立ち直っ
ていま『早馬』という名の店を開いている。
マスターの馬券の買い方は、本命の馬に大
金を賭けるというものだったと言う。
店の常連客にユミちゃんがいる。早馬の
隣に産婦人科医院があり、ユミちゃんは豊
胸のためのホルモン注射を受けにそこに通
っている。ユミちゃんは注射のあと早馬で、
女装のいでたちでコーヒーをうまそうに飲
む。どこから見ても女性にしか見えない。
そのユミちゃんと先日夕方、銭湯の脱衣
場で遭った。ユミちゃんは髪型も服装、下
着、持ち物も女性のそれだった。番台の主
人もそれを見ていたが、何も言わなかった。
ユミちゃんは前を隠そうともせずに堂々と
浴室へ、湯船へと入っていった。
同席した湯船の中で、私が「ユミちゃん
は女湯に入りたいのでは」と言ったところ、
「そう、ほんとはあっちに入りたいんだけ
ど、このからだではね。ここを切り落とせ
ばあっちに入れるとは思うけど、私にはそ
の勇気はないの」と言う。ユミちゃんは、
公衆トイレやホテルなどでは女性用に入る
と言う。これまで誰にも気づかれず、トラ
ブルも一切ないとも言う。
銭湯好きのユミちゃんは三十歳だ。夜、
スナックを開いている。思わず「結婚や子
どものことはどう考えているの」と聞くと、
「難しいわね。わたしは成り行きに任せて
いるの。でも、試験管ベビーなんかは絶対
つくらないわ。自分を大切にして、何事も
自分の頭で考えることにしているの」と応
える。
ユミちゃんは自分の心にただ素直に、正
直に、自然にしたがって生きているだけだ
と言う。他者に理解されなくてもいい、理
解されることを期待してもいない、誰とも
徒党は組まない、とも言う。
銭湯の帰り、ユミちゃんの誘いで私はユ
ミちゃんの店『湯見の台』へ初めて行った。
カウンターに五、六脚の椅子。その場所で、
お客にそれとは気づかせない細心の心配り
をして安らぎを与え、生き生きと賢明に、
そして懸命に働くユミちゃんの姿に、私は
つい我れを忘れて酔って湯船に乗っている
ような湯見心地になってしまった。
〈参考〉
兼六園から望む石川門
柴山潟から望む白山
銭湯「兼六温泉」浴室壁に掛かる写真パネル
作田 幸以智さん (金沢市) 撮影・寄贈・貼付
当講座記事NO.224から
宗像久男医師「ガンは簡単に治せる」本当の日本人
〈後記〉
上の写真の右側を左クリックすると拡大で
きます。さらに写真の中を左クリックすると
さらに拡大できます。
上の写真のほか当講座記事NO.104、172、
173、174、184、218、222、243、259、
284にも作田さん撮影の写真があります。
これら作田さんの写真はすべて、作田家の
近所の銭湯「兼六温泉」 (家族経営、1959年
創業、源泉湯、兼六園にも近い)の玄関及び
浴室壁に掛けられています。
当講座記事NO.170から
下町の心と誇り