259. 湯の人(その3)
【2022年7月7日配信】
喜び・感動の瞬間
加藤 蒼汰
夏の猛暑の今夜、湯船につかっていると、
「あー疲れた。疲れた」
と大声で、角刈りの人が浴室に入って来た。
初めて見る顔だ。
湯船に入ってもまだ、疲れた疲れたと繰
り返している。
「何に疲れたのですか。生活にですか」
と思わず声をかけると、
「料理や。きょうは次から次へと客が来て
たいへんやった。手が休まる暇がなかった
がや」
と応えた。
その人は料理人だった。JR金沢駅近くの
店で料理をつくっていて、魚料理が得意で
この道五十年だと言う。
「でも、嬉しそうですね」
とまたしても口をはさむと、
「ほうや。つくっとっときが一番楽し」
「食べてもろう人のために心を込めて常に
集中しとる。一所懸命や」
とも言う。
お皿に仕上げの一品を載せたときに、「
よしっ」と肚の中が叫ぶんや、わしの口か
らも自然とこの言葉が同時に出て来る、そ
のとき最高の喜び・幸福を感じるがや、と
さらに話してくれた。
私は別の銭湯で出逢った庭師のことを想
い出した。兼六園の庭園管理の棟梁をして
いて、松の木のてっぺん、さらにそれ以上
も上空で、芯柱から雪吊りの縄を投げてい
る人だ。
「よくあんな高いところに上がれますね」
と私が聞いたとき、
「おもしろいぞ。青い空と風と松のにおい
の中で、『よしっ』と縄を投げた瞬間に、
からだ全体に喜びの感情、感動が走る」
と言っていた。
「今度、いっぺん店に食べに来てくれま。
いつでもいらっし」
「つつしんでお伺いさせていただきます。
あんやと」
銭湯からの帰り道、私は七夕の夜空に向
かって、「よしっ」と思いきり叫んでみた。
〈参考〉
加藤蒼汰さんの記事は、当講座 NO.137と
205にもあります。
上の写真は、作田幸以智さん撮影(当講座
記事NO.104と174から)。写真の中または
右横を左クリックすると拡大できます。