400. 湯の人(その9)
【2025年5月14日配信】
幼稚園児と私 -銭湯でのできごと-
金沢市 浅井 恒子
あれからもう八年の歳月が流れた。当時
私たち夫婦は、野町の或る外科病院で入院
生活を送っていた。私の入院の原因になっ
た右腕の骨折はほとんど治っていたが、主
人の看護のために私はなおも病院暮らしを
続けていた。だが、そのころから私は、自
分では気がつかなんだが、脱疽の前兆とし
て歩行困難と左足の指の間に水虫の気配を
感じて困っていた。
病院からほど近い六斗林通りに「六斗湯」
という銭湯があり、その向かいには禅寺が
あり、そこは私設幼稚園が併置されていた。
或る日の午後、私は入浴のため六斗湯へ
出かけたが、まだ開湯には間があったので
禅寺の境内の石に腰掛けて、鍵の外れるの
を待っていた。その時、一人の幼稚園児ら
しい男の子がそばへ寄ってきて、
「おばあちゃん、百円おくれよ」
と言う。私はこの子のふてぶてしい態度
にびっくりして、少しきつい口調で、
「坊やちゃん、お母さんに言いなさい」
と言った。その坊やは、ふくれっ面をし
たが、
「お母さんに言うと、おこるよ」
と言う。私はこの子に甘い顔はできぬと
思い、
「では、おばあちゃんがお母さんに言うて、
もらってあげましょう。いいでしょう」
と言うと、突然坊やは私のそばから二、
三歩離れ、
「いらないよ、このくそばばあ」
と言うが早いかどこかへ走り去って行っ
た。
私は、肝がかっつぶれるほどびっくりし
た。そして、その子の両親とその家庭を想
像してみたが、見当がつかなんだが、だい
たいの察しはついた。けれど、それは決し
て快いものではなかった。
そんなことがあってから数日後、私は、
また六斗湯の脱衣所で湯上がりの身に着物
を着ていた。その時、三十歳くらいの婦人
が赤ちゃんを抱き、小学一年くらいの男の
子を連れて入ってきた。
その婦人は、履物をちゃんと外側に向け
て並べて入ったが、直さずに入った坊やに
対してただ一言「まこと、履物は」と注意
した。
坊やは何も言わず身体をかがめて、母親
の履物に並べて揃えていた。
私は黙って見ていた。そして心のなかで
は、とても感心していた。穏やかに注意し
た母、おとなしく聞き入れる坊や。それが
ごく自然で、この親子の家庭も私はいろい
ろ想像してみたが、悪い考えは一つも浮か
んでこなかった。
この親子の何でもない行為が、こんなに
も他人の考えを豊かにするものかと、私は
とてもうれしかった。思い出すだけで、ほ
のぼのと心が明るくなるのを覚えて楽しい。
小社発行『北陸の燈』第3号より
当講座記事NO.25再掲
題字 井上碧山さん (北九州市)
絵 本多千鶴子さん(金沢錦丘高校1年)
〈参考〉