347. 湯の人(その7)メヒコの熱人
【2024年6月16日配信】
猛暑日の出来事
加藤 蒼汰
きのう、きょうと北陸は真夏のような暑
さだ。真昼、汗だくで歩いていると銭湯が
あった。ちょっとひと風呂浴びたいという
気持ちになり暖簾をくぐった。
先客がひとり湯に浸かっている。どうも
中東から来た外国人のように見える。三十
歳前後ぐらいに思える。私は外国語はから
きしなのでその外国人にちょっと会釈して、
「日本語できますか」と思わず声をかけて
しまった。意味が分からないらしく反応が
ないので、「ユー・エス・エー?」とまた
声をかけると「メヒコー」と今度は反応が
あった。
私は、「おー、ピラミッド」と返答する
と、彼は急に湯船を出て脱衣場に走って行
った。不思議な動きだなと思っていると、
彼はスマホを手に持って湯船に戻って来た。
そして、私にスマホの画面を見るように手
で合図を送った。その画面を覗き込むと、
そこにはメキシコのピラミッドの写真が全
部ある。
「すばらしいですね」と私が声をかける
と、彼は、今度は自分の携帯に向かって英
語で何か話しかけた。これも不思議な言動
だなと思っていると、彼は再びその画面を
私に見せた。そこには「今、なんと言いま
したか」と日本語の文字が刻まれている。
彼は私に、その携帯に向かって話すよう
手招きした。私はもう一度「すばらしいで
すね」と言った。英文に翻訳されたであろ
うその画面を見て、彼は満面の笑みを浮か
べた。
こうして彼との会話がはずんでいった。
彼はメキシコのすべてのピラミッドに行っ
たことがあり、私的に研究もしているよう
だ。鎌倉が一番好きなところと言う。また、
北陸にはきょう初めて来たとのことで、私
にどこかいいところがないかと聞くので、
知る人ぞ知る湯と水の名所を教えた。
彼の好奇心はすさまじく、加賀藩前田家
や家老の本多・長・横山・村井・奥村家に
ついての生半可でいいかげんな私の知識、
歴史観まで披露させられてしまった。
そうこうしていると、湯船に三十分以上
も浸かっていることに気づいてきた。一時
間以上だったかもしれない。彼は計り知れ
ない知識欲と気力、体力の持ち主のように
思われた。私はのぼせてフラフラになって
きたので、水風呂に移ろうと湯船を上がり、
二、三歩あるいたところで後ろへ仰向けに
ひっくり返ってしまった。
他の客が飛んできて「大丈夫か」と聞い
た。私はまだ意識が少しあったので「水」
と応えた。石鹸箱に水を汲んで口元にあて
てくれたが、私は、そうではなく全身に水
をぶっかけてくれるよう頼んだ。彼はすば
やく風呂桶で四、五回かけてくれた。
意識を取り戻しメヒコの彼を見ると、彼
は湯船の中に沈みかけていた。「彼も助け
てあげて」とその客に頼んだ。客はとっさ
に彼を湯船から引きずり揚げ、私にしたよ
うに水をぶっかけた。後客の機敏な動きの
おかげでふたりとも運良く命拾いをしたし
だいである。人生何が起きるか分からない。
入浴と対話は命懸けである。