361. 湯の人(その8)
【2024年9月9日配信】
杖仙人
加藤 蒼汰
九月に入っても残暑厳しい毎日だ。あま
りの暑さに迎え酒のごとく銭湯へ出かけた。
真昼、客はだれもいなかった。真っ先に
水風呂に入り、からだが冷えたところで熱
い湯船に三分ばかり浸かっていると、ひと
りの老人が杖をついて入ってきた。銭湯で
初めて見る情景だ。白鬚が顎から十センチ
あまりたらりと垂れていて、その様は昔、
絵で見た中国の道教の仙人を思わせるに
充分であった。
仙人は足が悪いようで一歩前を進むのに
たいへんな労力をついやしていた。私の横
に浸かってきたが、あまりの威厳に私は声
を掛けられなかった。互いに会釈もせずに
そのままじっと並んで浸かっていた。
カラスの行水のごとく私はサッと風呂か
らあがり着替えをし外へ出た。しかしなぜ
か仙人のことが気にかかり脱衣場に戻った。
そして、そこにある椅子に座ってドリンク
を飲んでいると、仙人が風呂からあがって
きた。
どう見ても齢九十歳を越えているように
思われる。猫背で腰も九十度に曲がってい
る。杖を頼りに前かがみでやっと歩いてい
る状態だ。よくぞここまで風呂に入りに来
たものだ、どうやってここまで来たのだろ
うか、家族のだれかに送ってもらったのだ
ろうか、など様々な思いにかられる。
仙人は手も不自由らしく、椅子に座って
紙おむつ、下着、上着、靴下、ズボンなど
そのひとつひとつを身につけるのに相当の
時間をついやしていた。すべてを身につけ
るのに三十分以上もかかった。その間、私
は新聞を読むふりをしてその様子を見てい
た。
仙人は杖をつき一歩ずつゆっくりと歩き、
そのまま銭湯の駐車場へ向かった。駐車場
は銭湯の玄関から十メートル先にある。そ
こまで十分かかった。仙人はひとり車で来
ていたのである。車の場所にたどりついて
運転席に座るまでにも十分要した。
いったいどんな運転をするのだろうか、
私は仙人の車のあとを追いかけた。
仙人の運転技術はすばらしいものであっ
た。次々と前の車を追い越し、追い抜いて
いくのである。私は見失うまいと必死にな
って仙人の車のあとを追いかけた。
仙人の車は高速道路に入っていった。私
は一瞬、躊躇したが、ここまで来たからに
は、とあとに続いた。仙人は北へ向かって
いる。
百キロ出しても追いつかない。おそらく
仙人はアクセルペダルを最深部まで踏みっ
ぱなしで運転しているのだろう。どこへ行
くのだろうか。どうしても追いつけない。
私は追跡をあきらめる瞬間、車窓から顔
を出し、仙人の車の背に「もっと飛ばせ」
と何度も叫んでいた。
当講座記事NO.26「深みゆく秋」浜田 弥生