387. 小説『金沢夜景』
【2024年3月21日配信】
小説『金澤夜景』から
第二篇 金沢夜景
作家 広瀬 心二郎
金沢の中心街から見ると駅をはさんだ裏
側、香林坊あたりのにぎわいとは比べよう
もないが、それでも路地に幾つか赤提灯が
並び、そこそこの雰囲気を醸し出す一角で、
麻は着物姿にタスキをかけて、暖簾を出し
ているところだった。袖がまくれて、五十
を過ぎた今でも艶のある白い腕が露わにな
っている。
ここが行き止まり。
夕映える空を仰ぎながら、暖簾を掲げる
このひとときに、そんな感慨を抱くのが毎
日のならいとなっている。二十数年前、友
を頼ってこの土地に来て馴れない水商売に
飛び込み、幾つか店を移った。泥をかぶり
ドブを這いまわるようにして食いつないで
きた。
海辺近くの、いささかいかがわしいよう
な一杯飲み屋を手伝っていた頃には、やは
りこうして暖簾を出しながら、空を舞うカ
モメに向かって、そこから見たらあたしみ
たいな女はおかしかろうね、と話しかけて
いた自分の姿を思い出す。
ようやく自分の店をもてた。よくも悪く
も、ここが行き止まりなのだと、心に語り
かけているのである。
「おはよう」
背中に声をかけられ、振り向くと常連の
伊三さんがビニール袋を手にして立ってい
る。
「ちょっといいがが手にはいったから」
「いつも、悪いねえ」
袋の中身は、タラである。伊三さん自身
は工場の勤めが還暦を過ぎても続いている
が、実家が漁師をしている関係で、ときお
り、こうして差し入れをしてくれる。のみ
ならず、ことあるごとに何かと世話をやい
てくれる。この店もその口利きで借りるこ
とになった。口さがない客の中には、麻に
対して下心があるのだろうと陰で噂してい
る者もいるようだが、麻の夫の信行、信さ
んと古くからの昵懇の仲なのであり、それ
以上のことはこれっぽっちもない。
「ねえ、いささん。だいぶ遠くまできてし
もた、なんて思うことってないけ」
「あんね。そんな時に思いつく言葉もある」
「なんや」
「ならず者。とうとう一丁前になれなかっ
た男」
「はは。で、とどのつまりが飲んだくれ」
「ああ。飲み屋のカウンターで歳とってく
ってわけや」
店の入り口には、客それぞれの風が吹く。
生きるのに疲れきったような客が暗い視線
を流しながら入ってくる時には、木枯らし
をいっしょに連れてきたりする。逆に伊三
さんなどはいつも春風といっしょだった。
小柄な体が、今夜も遊びまっせ、と弾むよ
うに入り口に立っただけで、雰囲気が一気
に明るくなる。
そのはずで、若い頃には大阪で流しを家
業にしていた人である。店の花見や忘年会
などには、使い込んだ相棒のギターを抱い
てきて、なまで伴奏をしてくれるのだ。流
しの頃の伊三郎という名は芸名で、ずいぶ
ん堅苦しい本名があるのだが、そちらのほ
うは麻は忘れてしまっている。
カウンターの端のいつもの席に掛けた伊
三さんに一杯出して、差し入れの魚をさば
きはじめると、店の電話が鳴った。麻が出
たが、何も言わない。何度か呼びかけてい
るうちに、かちゃりと切れてしまう。
「なんや、無言電話かいね」
「うん、このごろ、週になんどか」
「ほおん。だれやろ。客でだれか麻ちゃん
に気がありそうなもんっておるかね」
「……あたしの子どもやないかって思うん
やけど」
「ああ」
富山に別れた前の夫がいる。そこに、上
は女、下は男のふたりの子を置いてきてい
た。
このところ、麻はそろそろ女として終わ
りになりそうな気配を感じている。月のも
のが来たり来なかったり。のぼせが来て、
寝汗をかいたり、眩暈がしたり。
置いてきた子を思うのは毎日のことで、
ときおりそれゆえの鬱がひどくなる。そこ
に更年期の不調が重なって、目の下に隈を
こしらえた顔で店に出ていると、伊三さん
が心配して声をかけてきた。ふた月ほど前
だ。ほかの客が引いたあとで麻もいささか
酔いがまわっていて、めったに口にしない
心の懊悩を打ち明けた。
店から五分ほどの、麻たち夫婦が暮らす
マンション、といっても狭いアパートのよ
うなところだが、その押し入れに信さんが
後生大事にしている本がダンボール箱に五
つ、ぎっしりと詰めて置いてある。学生時
代からの宝物なのだという。たいていはも
う紙の色が変わってしまった文庫本である。
麻も小説が好きで、まとまった時間があく
とそのダンボールをあさってみたりする。
その中の、吉川英治の短編集に、「下頭
橋由来」という作品があった。無論時代物
である。江戸は巣鴨に近いある村の、石神
井川にかかる橋の下に若い物乞いが住み着
いた。人が通りかかると振り仰いで、ビタ
銭でも投げてやると一心に頭を下げて礼を
する。悪ガキどもが馬鹿にして橋の上から
小便をかけたりしても、ただにやにやと笑
っている。さりかといって、どうも根っか
らの物乞いでもない様子だった。体も満足
なら顔立ちも人並みである。川に落ちた子
供を助けたりもして、いつしか村人に愛さ
れるようになっていった。ところがある日、
ひとりの侍が橋を通りかかり、物乞いの正
体を見抜いて腰のものを抜き放って追いか
けた。侍は小田原の人で、物乞いは侍の妹
と恋仲になり出奔、妹を取り戻しに行った
侍の弟を切ってしまい、妹は非を悔いて自
害したのだという。村人が物乞いをかくま
い、なんとか逃がそうと画策するのだが、
とうとう侍に切られてしまう。男の住んで
いた小屋を片づけてみると、それまでに投
げ与えられたビタ銭を一枚も使わなかった
ように残してあり、それを入れた袋には「
下頭億万遍一罪消業」と見事な書体でした
ためてあった。つまり、男は物乞いとなっ
て人々に頭を下げつづけることで、おのが
罪を贖うつもりでいたのだった。
「その下頭億万遍一罪消業というのが、あ
たしの気持ちなんよね。前のだんなと、大
人どうしは別れてしまえばそれですんだけ
れど、いたいけな子どもたちをおいて家を
でてきたのは、やっぱまちがいやったなあ
って」
伊三さんは頭を下げて、煙草の灰を叩く
のも忘れて聞いていたが、
「いま、どうしとっか、わからんがかね。
麻ちゃんの親戚で様子を知らせてくれる人
とかは」
「いとこがおって気にかけてはくれてたん
やけど、子どもたちの様子とかは、なんも」
「ほんならな、弁護士に知りあいがおるか
ら、頼んでみっるよ。そこらのやくざな興
信所なんかより、よっぽどあてになっから」
伊三さんが言ってくれて、それから十日
ほどのちに、住民票の写しが麻の手に入り、
麻は思案の末、子供たちに手紙を出してい
た。前夫は再婚しており、娘の美沙は富山
市内にひとり暮らし、弟の賢一は名古屋に
出て運送会社の寮に入っている。今更母親
面ができるはずもなく、会いたいなどとは
書かなかった。ただ、下頭億万遍の詫びの
つもりだったが、それでほんのすこし、積
年の心の痛みが薄らぐような思いはあった。
それからの、無言電話なのである。
「ほうなら、かえって悪いことしてしもた
かな。いらんことして」
早くも目のまわりを赤く染めて伊三さん
が言う。
「なあん。でもやっぱし子どもやなくて、
あたしにはほの字のお客かも。前に勤めて
た店でも、そんなことがあったの。車のラ
イトを消して店の近くでじいっと待ってて、
あたしが店からでると、ライトで足もと照
らすみたいにして、ただそれだけの人やっ
たんやけど。………こんでもどこがいいんか
ねえ、そこそこ寄ってくる男がいて」
「ほうけ」
無理に声を明るくつくって言ってみたが、
やはり子供たちにちがいないと確信してい
る。どちらだろう。娘か、息子か。
それでも有り難かった。無言電話でも通
い合うものは、あるのである。言葉はなく
ても、向かい合っている。向こうも、何か
語りたくてかけてきているのだ。そのうち
に、ひと言聞けるかもしれない。
常連客がひとり、ふたりと顔を見せて、
麻は気持ちを切り替えた。金沢の初冬の食
べ物といえば、ブリである。定番の、大根
との煮付けだが、かなり評判がよかった。
蓮根もこの季節のものだ。煮物も出すが、
麻は蓮根を擦って揚げたりしている。あと
は甘えび、そして犀川と浅野川で捕れるゴ
リ。
常連さんには職人が多い。節くれた自分
の太い指をしみじみ眺めながら、
「うらの指は、んな親指やなあ」
と、馴染みの職人が笑う。するとその連
れの、やはり職人が、
「いつも思うんやけんどなあ、よくまあ、
われみてえな男に、あんなうつくしかあち
ゃんがきたもんやな」
「ほりゃおまん、男には顔よりでんなもん
あっさきな。前に娘にな、かあちゃんの若
いころのほうがおまえよりかきれいやった
っていうたらな、そりゃそうや、とうちゃ
んの血が半分まじっとるんやからって、は
ごむかれてしもうて」
「そりゃ、そのとおりや」
「わしも知らんまに還暦になったわ。ほん
で、ひとつ、やっとわかった」
「なんや」
「わしもろくなもんで、ねかったってこと
や」
「ほれに気なつくがに、わりゃあ六十年も
かかったちゅうことか」
「ほうや」
そんな、腹を抱えるような掛け合いのあ
とに歌が出て、卑猥な話が飛び交い、麻も
負けずに切り返して笑う。笑いながら、ふ
と子供たちを思う。思えば、今のこの暮ら
しが風呂敷でひとまとめにして片づけるよ
うに、ぷいと飛んでしまうような気がする。
そのうちに、ひと悶着あった。店はカウ
ンターに七脚椅子があり、こあがりに卓が
ひとつ置いてある。そのこあがりで月に一、
二度顔を見せる客同士が声を荒らげはじめ
たのである。
「おっ、いさきか、おもしぞ、やれやれ」
カウンターの客が無責任に囃し立てる。
麻が飛んでいく。
「なに、どうしてん」
聞くと、政治の話だという。
「けんかやったら、こんな狭いとこでせん
で、外ではんなりしまっし」
たしなめると、喧嘩ではない、議論だと
いう。
「議論なんなら、おたがいの考え尊重しん
と」
ぴしっと言うと、客は苦笑いを浮かべて、
「おこらってしもたな」
「ああ、ママがいちばんおとろしわ」
舌を出して小さくなっている。
こんなことは、日常茶飯事だ。対応して
いる時に、麻は自分の底にハガネのように
黒光りする強さを見る。どうも自分は強さ
と弱さと両極端を併せもっている、と感じ
る。
ここに店を借りて八年近くなる。色々な
人間が通り過ぎていった。概して男どもは
面倒だった。飲むと気が立つ、助平になる。
話すことといえば、自慢話、賭けごとの話、
そしてなぜか天下国家だ。深酒を続けて体
を壊していった者もいる。馴染みの独り者
がぱたっと顔を見せなくなって、麻と信さ
ん、伊三さんでアパートを訪ねてみると、
血を吐いて亡くなっていたこともあった。
その時ほど、因果な商売に入ったものだと
思い知らされたことはない。
それでも、そこに酒がある。人が人とし
て暮らしはじめた頃にはもう酒があったに
ちがいない。心というものがあるから、そ
の心が生きていくということだけでぽろぽ
ろ傷つくから、酒が必要なのだ。人間とは
そのような生き物なんだと思う。
そんな、哲学的な思いにふけっていると
ころに、入り口の戸が開いて、夫の信さん
が入ってきた。
「マスター、おかえり」
客から声がかかる。信さんは精いっぱい
の愛想笑いを浮かべて応えるが、目が笑わ
ない。それぞれに連れてくる風がある。細
身で猫背、陰鬱に眼鏡を光らせて、信さん
の風はシベリアおろしだ。もっと愛想よく
するように何度か意見してきて、以前より
かなりよくなってもこんなである。
印刷会社に勤めていて、夜はこうして手
伝っているのである。
信さんが厨房に麻を手招きして、ポケッ
トから手紙を出した。差出人を見て、麻は、
「あっ」
と声を出した。富山に置いてきた娘の名
がそこにあった。
湯ぶねの中で麻はずいぶん長い時間、ぼ
うっとしていた。お湯で流しても流しても
溢れてくるものがある。二十何年か前も同
じだった。きっかけは忘れてしまったが、
ひどい喧嘩の果てに、前夫はすぐに出てい
けと言う。酒の勢いで、自分の言葉に興奮
してなお言い募る。そのあとにいつも待っ
ているのは、暴力でしかない。何度も同じ
ことを繰り返してきたふたりだったから、
負けずに言い返す麻ももう女ではなく、黒
光りするハガネの心そのものとなっていた。
すべてを捨てる気になった。
家を出て、あれはどこかの安旅館の風呂
の中で声をあげておいおい泣いた。布団に
入ってしばらくして、子供のことを思うと、
頭の中で脳味噌が妙な感じになった。なん
だか頭に手を突っ込まれて、掻きまわされ
る、いや、脳味噌が布団をたたむように折
り重ねられるような感じである。気が狂う、
と思った。あの時は、酒の力を借りてよう
やくおさまっていた。
目を赤くしたまま寝室に入ると、信さん
はまだ寝ておらず、布団の中で文庫本を広
げている。そうか、明日は日曜だったと気
がついている。
鏡台に向かって顔にクリームを塗ってい
ると、信さんが鏡の中から、
「娘さん、なんて」
「………きてくれるって、この次の土曜」
「そうか、そりゃよかった」
「うん。その時いっしょに金沢の駅いって
もらえるかね。来週は休みになりそうかね」
「ああ。休める。でも、おれみたいもんが
顔だしてもいいんかな」
「子どもにも手紙で知らせてあっから。信
さんのことは」
「そうか。………ときどき、おまえが朝の支
度なんかをしとる時にね、この姿はもとも
と子どもたちのためにあったはずやな、な
んて思ったことがある。それにおまえ、夜
中に、よく、つらそうな寝言いってたな」
「えっ、あたし、寝言なんかを」
「うん。寝言っていうより、泣き声かね。
夜中にせつなそうに声をあげるんや」
布団に入ると、信さんが腕を伸ばして髪
を撫でてくれる。
信さんとは以前手伝っていた店で知り合
った。もう生きていない人のような感じだ
った。体の中に深い悲しみがあって、世の
中から一歩はみ出してしまっていて、そこ
が自分の場所と決めているような感じだっ
た。
「なんだか、こわい気も」
「そうか」
「あたしんなかじゃ、あの子たたちは昔の
まんまなんよ。小さいころの姿のまんま。
こんな母親でもちょっと様子がいかったか
ら、自慢やったようやし。いまのあたしは
このとおりにあばずれてしまって。…………
あたしを見て、あの子、どう思うかね」
罪、という言葉がある。ずっと、その言
葉の海の中をゆらゆら漂ってきた気がする。
もし子供が、母親がいないことでぐれてい
たら、あるいは人生を悲観して死を思うよ
うになっていたら。そんなことばかり考え
てきた。
麻は、幾つか流れ歩いた店で客と寝たこ
ともある。金も絡んでいたが、金だけでな
く、女にはそんな時がどうしようもなく、
あるのだった。麻の中の幼いままの子供た
ちの視線が、そういう麻の過去を刺してく
る。
その日は、店を休んだ。常連さんには、
前もって伝え、有り体に訳も話しておいた。
この時期の北陸には珍しい、小春日和に
なった。信さんとふたりでコートを車に置
いて金沢駅の改札口に十五分ほど早めから
待っている麻の体の芯に、しかし震えるよ
うな寒さがある。
不安なのだった。娘がどう変わっている
か、その目にどう自分が映るか、そしてそ
れ以上に、再会することじたいが結局苦い
ものになってしまうのではないか、という
不安。
下頭億万遍。もし娘が望むなら、この駅
の人込みの中で土下座してもいいつもりで
来ていた。
化粧も身なりも、いつもよりずっと地味
にこしらえてきている。電車が入ってきた。
目を凝らす。手紙には、目印に緑色のビニ
ールの袋を提げて行くとあったが、目印は
必要なかった。改札口を抜けてくる人々の
群れの中に、ひと目でそれとわかる、すら
りと背の高い若い娘の姿があった。その顔
立ちが、自分の若い頃そのままを見るよう
だった。
美沙は、麻たちに気がつくと実におおら
かな笑みを浮かべて手を上げ、
「ハーイ」
アメリカのテレビドラマに出てくる若い
恋人たちが、朝ごとの挨拶を投げ合うよう
な感じで言った。かたかな言葉としか麻に
は思えなかった。金縛りにあったようにす
くんで、ようやくぎこちなく手を上げ返し
ていた。
若い女というものをもし一筆書きに一気
に書いたら、こうだろう。娘はそう思わせ
る様子で目の前に立っている。柔らかな、
ほどよく肉のついたすらりとした肢体、そ
して明るくしっかり前を見ている、そんな
気のする広やかな顔。
溢れてくるものをそのままに立ち尽くし
ている麻に、通り過ぎる人たちがちらちら
と視線を投げていく。
「おかあちゃん」
美沙は信さんにも頭を軽く下げて、ハン
カチを取り出して麻に手渡した。
「ありがと」
答えるのが精いっぱいだった。
海沿いに、店の仕入れをしているところ
があって、そこに寄って帰ることにする。
信さんのぽんこつ軽自動車の座席で揺ら
れながら、手を重ねてふたりとも黙ったま
まだった。金沢港が見えると、美沙が小さ
く声をあげる。
「ああ、海がきれい」
夕日がそろそろ水平線にかかろうとして、
きらめく波光が目を射た。
「ちょっと、海、見ていかん」
そう言うと、美沙もまだほぐれきらない
気持ちを頬の硬さににじませて、うなずい
た。波止場で車を降りる。信さんはふたり
からすこし離れ、煙草をくゆらせていた。
沖のほうから波がふくらみ沈み波止場に
打ち寄せ、また返していく。同じことを繰
り返しながら、波はひとときも同じ姿にな
ることはないのではないかと思う。想像も
つかない昔から海はこうしてきたのだ。そ
う思うと、小さな人間の存在を超えるもの
が体を包んでくれる気がする。海と話をし
に来るのが麻は好きだった。
「あたしね、一日じゅう、こうやって海を
見とっても飽きんがよ」
「ああ、昔そんなこと、おかあちゃんいっ
とったん聞いたよな覚えあるっちゃ。なん
どか岩瀬浜のほうに連れてってもらったね」
その浜へは富山の市街から旧国鉄の電車
が通っていた。最近ではスマートな路面電
車に切り替えられたらしい。
同じ海をふたりで見詰めながら、何かま
だちぐはぐで、ぎこちなかった。今日の自
分が一番怖かったのは、このことだったと
気がついている。やはり遠かった。埋めら
れない距離があった。それでも、娘も懸命
にこちらに踏み込んでくれようとしている
のはわかる。
何なのだろう。私がこの子なら、殺した
いほど母親を憎んだことだろう。なんでこ
んなにものわかりがいいのだろう。
「おかあちゃん、ちょっと冷えてきたね」
「うん。じゃ仕入れをしてかえろか。どこ
かでうまいもんでも、食べるかね。このさ
きに地魚のおいしい鮨屋があるけど」
「………ううん。おかあちゃんの手料理のほ
うがいいっちゃ」
ふたりして立ち上がり、信さんにも声を
かける。歩きかけて、
「美沙、おかあちゃんて、よく呼んでくれ
たがね。ありがとう」
言葉をかけつづけるんだ。そのほかに、
ふたりのあいだにある距離を埋めてくれる
ものはない。そんな気がしている。とにか
く、話つづけるんだ。
狭い台所で美沙も手伝いをしてくれると
いう。エプロンのひもを腰でゆわえる、そ
結びかたがちょっと変だった。蝶結びにな
っていない。箸のもちかたも、ちょっとお
かしい。
そのふたつを、まだ麻が子供の頃のある
日、母親が教えてくれた覚えがある。でも、
今日はまだ、そんなことを押しつけがまし
く言わなくていいと思う。
「美沙は、彼氏とかは、おるがか」
尋ねると、
「うん、おるよ」
美沙の肌が照ったようだった。
「わたしね、もうじき、結婚すんがよ」
「えっ、そいが」
ちょっとまた胸が詰まった。
「その前におかあちゃんのこと、気持ちん
なかで片づけておきたかったんよ。ちょう
どそこに手紙もらったから、もしかしたら
神様ってほんとにおるがやないかって思っ
たが。………そんなに泣かんで。お料理みん
な塩漬けになってしまうっちゃ」
麻の鼻の下が真っ赤になっている。
「ちょっと、悔しいがぜ。あたしがおらん
でも、美沙がこんなにいい子に育ってくれ
て」
「なん。わたしってそんないい子じゃない
がよ。前は、ぐれてた。ヤンキー」
「ええっ、美沙がヤンキーね」
「金髪でぶりぶりいわせとったが。へへ。
わたしすごく荒れとったんよ。なんに荒れ
とるがかもようわからんとね。そのころな
ら、おかあちゃんの手紙、すぐに破って捨
てとったかもしれん」
「ああ。………きっと彼氏がいい人なんや」
「うん。………こうやって、ほら」
美沙はコップに水道の水を満たして、
「こうやってね、コップがいっぱいになる
とね、水が自然にあふれてくるやろ。こん
なぐあいかなあ、なんてときどき思ってね。
自分でいうんもちょっと恥ずかしけど、み
んなが、わたしが変わった、変わった、や
さしくなったっていうから、気持ちが満た
されて人にもやさしくできるよになったが
かなとか思って」
料理ができて、信さんと三人で卓を囲ん
だ。座った信さんが、
「あっ、美沙ちゃんは、たばこは」
「ああ、吸いませんけど。なん、つかえん
ちゃ」
「ああ」
信さんは煙草に伸ばした手をまごまごと
引っ込める。
「吸ってもいいがよ」
麻が口をはさむと、
「いや、いい。ビールはどうかね」
信さんは緊張した時の、それが癖で、す
こし言葉がつかえている。
「ああ、いただきます」
風呂からあがった信さんが、気をきかせ
て隣りの部屋で寝るという。ふたりきりに
なると、美沙が小机の上に立ててある写真
を見て、
「あれ、このすてきな人は」
「ああ、あたしの友だちで、こっちにくる
時に世話になったんや。この人がおらなん
だら、おかあちゃん、いくとこなかった」
水商売のイロハから教えてくれた町子と
いうその人は肝臓をやられて三年前に亡く
なっていた。中学で同級だった。店に出る
前に必ず手を合わせている。
「おかあちゃん、おじさんて、だいぶ繊細
なが」
「信さんやろ。本人はこわれものやってい
うとる。神経が、こわれたがやて。昔にね、
若いころなんかあったらしい。七十年の安
保って、学生運動の盛んなころがあったや
ろ。そのころに大阪のほうの大学にいって
たがやけど、運動のなかで、心がこわれて
しもよなことがね」
「そうなん。でも、いい人やね」
「ずっと苦しんどった人が育ててきた心の
深さっていうもんはあるさけね」
信さんは、ほとんど昔のことを話さない。
留置場だか拘置所だか刑務所だか、そのど
れかに入っていたことがあるらしい。その
区別が麻にはつかなかった。よほど悩んだ
日々だったのだろうか。天下国家を考え、
人間を考え、ぼろぼろになったらしい。
それで、自分の過去も合わせてみて、人
間がほんとうにものを考えるとは、実は体
を痛めるほどのことなのだと麻は思う。
「ねえ、おかあちゃん、おとうちゃんに殴
られたりしたこと、あったがやない」
「………うん」
前夫のことは、夫婦ふたりのあいだであ
ったことは誰にも話したことがない。おそ
らく話しても世間にはわからない。夫婦と
はそういうものだ。そして話さない、ひと
言も口にしないことが麻の意地であり、誇
りでもあった。しかし、娘に今はすこしだ
けなら愚痴めいたことを聞かせてもいいの
ではないかと思って、
「たたかれて鼻の骨が曲がって、いまでも
よく鼻がつまることあるが」
「ほんとなが。………お酒やろ」
「うん。気が弱い人やったから、お酒を飲
むと変わってしもが。それに、おかあちゃ
んのこと、つれというより、母親みたいが
に思とったがやないかね。甘えて、ぐずっ
て、気にいらんことあっと、あばれて」
悲しい目をして荒れていた。麻を殴る時
だ。夫婦としてそばにいても、お互いの心
の遠さに絶望しているような、あるいは荒
れ狂う自身の心に絶望しているような目だ
った、と今になれば思える。
「それに、ちょうど美沙を身ごもった時に、
浮気なんかしてね。男には、結局わからん
がよ。女が子どもを産んあの痛さも」
「だらやったんやね。そんなとこやないか、
思とったんやわ。おとうちゃん、いまは、
お酒飲まれんちゃ」
「あれ、そいがか」
「それでおかあちゃん泣かせてしもたって
自分でもいうとる。いつも、おかあちゃん
はとってもきれいな人やったって。ただ、
相性とか反りがあわなんだとか、そんなん
でいっしょに暮らせんがになったって」
あの人が、そんなことを子供たちに。ま
さか。あの酒乱のろくでなしの夫がそんな
気のきいたことを口にしていたなんて。長
い年月の憂いが、美沙のその言葉で一気に
溶けていくような気がして、胸の中で、手
を合わせている。
「賢一は、美沙がきょうここにこられるが
知っとるん」
「うん。電話で知らせておいたけんどね。
にえきらん感じやった。男の子はね、また
母親への思いがちごがやろか」
「そんながやないかね、うん。賢一、トラ
ックに乗っとるが」
「長距離やわ。デコレーションのぎらぎら
したトラックやいうとった」
美沙はふと、窓のほうを見やって、
「街の灯がきれいやね。よくこうやって神
通川に映る夜の景色をながめてね、おかあ
ちゃんどうしとるんかなって思とった。お
んなじふうに夜の景色見とっても、子ども
のころとぐれてるころと最近と、気持ちに
残るもんがちがうんや」
ふたりして窓辺に寄って、あのあたりが
香林坊、主計町、などと金沢の街の灯のま
たたきをしばらく眺めていた。子供たちの
ことを思って麻がこの街の灯を見詰めてい
る時に、ずっと向こうの富山の街でも、幼
い美沙が窓に顔を当てるようにしてこちら
を眺めていたのだ。その姿が麻の瞼に浮か
んでくる。
「なんか、美沙、きょう、眠れそうもない
っちゃ」
布団に入って美沙はそう言っていたが、
そう言ってどれほどの時間も経たないのに
静かになったと思ったら、もう健やかな寝
息を立てていた。
「よかったな。ほりゃ。よかった」
伊三さんが手放しで喜んでくれた。その
脇で、信さんがしんねりむっつり飲んでい
る。
美沙は麻が大事にしていた加賀象嵌のブ
ローチをもって帰っていった。結婚式に胸
に飾るから、と言っていた。
「だいぶ、しみてきたな」
「こりゃ、たんと舞うかもしらん」
昨日とはうって変わって底冷えのする夜
になった。
その時電話が鳴り、麻が手に取ると、相
手は何も言わないでいる。賢一、と言葉が
出かかる。呼べない。かちゃり、とそのま
ま切れてしまう。心持ちその音が今日は柔
らかになった気がする。カウンターのふた
りの視線が麻の手もとに来ている。
なにごとにも、どんな人の営みにも、そ
れなりの訳はあるのだ。せめてそれだけは
わかってほしい。麻は、そう、受話器に向
かってつぶやいている。
(了)
撮影:作田 幸以智さん
(当講座記事NO.104、174から)
当講座記NO.213~216再掲
以下参考
『金澤夜景』第一篇「箸の先」は、
当講座記事NO.69にあります。
NO.70 の記事には同書の「推薦の
言葉」があります。
また、広瀬心二郎さんの詩が当講座
記事のNO.10 にあります。さらに、
エッセイがNO.60、92、102、122、
150にあります。
作田幸以智さん撮影の写真が、当講座
記事 NO.172-174とNO.104、NO.176、
NO.184、208、222にもあります。
写真の中または右横を左クリックする
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