392. 哲学的人間観-その2-
【2025年4月1日配信】
富山大学名誉教授 柿岡 時正
二 有神論(唯心論)と人間
有神論は唯心論と密接に関連しているので、
まず唯心論について説明しよう。唯心論とは
世界(宇宙)をすべて人間の心(意識)から
見た観念と考える立場であって、観念論とも
いわれている。前号で述べたように唯物論は
人間の肉体的・物質的側面を重視して人間を
物質(自然)の単なる一部分と見なすために、
人間の主体性を確立する点に困難があった。
人間は自然や宇宙の一部としては極めて微小
な存在であり、その主体的能力も軽視・無視
されやすいからである。それ故にマルクスも
いうように古い唯物論ではすべての対象・現
実(人間も含めて)が客観的にのみ見られて、
人間の主体的活動・実践としては把えられ得
なかった。したがって人間の活動的方面はむ
しろ唯物論とは反対の唯心論(観念論)によ
って展開されて来たが、その場合には抽象的
で現実的・感性的ではなかったと彼はいって
いる。マルクスはそのような考察に基づいて
古い唯物論や古い唯心論とは異る新しい哲学
的立場で人間の主体的実践を確立しようとし
たのであるけれども、しかしその立場を「新
しい唯物論」という名称で呼んだ結果やはり
真の主体性を確保し得なかったのである。
それに反して世界(宇宙)を人間の心が見
た観念と考える唯心論では、抽象的ではあっ
ても人間の主体性は一応認められて来たので
あった。何故ならば世界(宇宙)が人間の観
念であればその中心は当然人間(心的自我)
となり、主体的活動も重視され得るからであ
る。ただしその場合でも人間は絶対者的な存
在とはなり得ず、特に物質の創造に関しては
全く無力(人間の科学的技術は物質の状態を
変えているに過ぎない)であるために絶対精
神や神による創造を前提せざるを得ない。し
たがって唯心論は有神論と全く同一ではない
が極めて密接な関係があり、また宗教にも最
も近い哲学思想であるといえよう。しかしな
がら同じく世界を人間にとっての観念と見る
立場でも、カントの批判的観念論のように有
神論的唯心論とはむしろ正反対の思想もあり
得る。即ち彼の立場は観念論ではあるが神を
認めず、自然(物質)や神のような絶対者は
人間にとって不可知的な存在自体(物自体)
で人間はただ経験的な現象のみを知り得ると
主張した点では唯物論や有神論的唯心論の何
れとも異っている。
それ故にカントの批判的観念論は有神論的
唯心論(通常の観念論)とは区別して不可知
論または経験論と呼ばれることが多いけれど
も、その方が唯物論や唯心論と異る第三の哲
学的立場としての性格を明確に示し得るので
今後は主にその名称を用いることとする。私
はこの不可知論的経験論としての批判的観念
論こそ人間の最高で最終の哲学的思想ではな
いかと考えているが、必ずしも完全ではなく
多少の欠点もあると思っている。しかしその
欠点については次号で述べることとして、本
号では彼の基本的立場と有神論的唯心論や唯
物論との差異を明確化しておくに止めたい。
さてこの三つの哲学的立場の関係について、
エンゲルスはマルクス的唯物論者の立場から
次のように説明している。彼は「すべての哲
学、特に近代哲学の根本問題は思惟と存在と
の関係である」と前提し、「この問題に対し
ていかに答えるかによって哲学者達は二大陣
営に分裂した。自然に対する精神の根源性を
主張し、したがって結局何らかの種類の世界
創造を認めた人々は─そうしてこの創造は哲
学者の場合には屢々例えばヘーゲルのように、
キリスト教におけるよりももっと複雑で困難
なものとなっているが─唯心論の陣営を構成
した。自然を根源的なものと見なした他の人
々は唯物論の種々の流派に属する」と述べた。
エンゲルスは更に「しかし思惟と存在の関
係についての問題はまた他の一つの側面を持
っている。我々をとり囲んでいる世界に関す
る我々の思惟はこの世界そのものといかなる
関係にあるのだろうか、我々の思惟は現実の
世界を認識することができるのか、我々は現
実的世界についての我々の表象と概念の中に
現実の正しい映像を造り出すことが可能であ
るのだろうか、この問題は哲学的用語では思
惟と存在の同一性に関する問題といわれてい
るが、大多数の哲学者はそれを肯定している。
……………………………………………………
しかしそれと並んで世界の認識、あるいは完
全な認識の可能性を否定する他の哲学者の系
列がある。それに属するのは近代ではヒュー
ムとカントであり、彼らは哲学の発展の中で
極めて重要な役割を果たして来た。この見解
に対する反駁の決定的なものは、唯心論の立
場から可能な限りにおいて、既にヘーゲルが
述べた」ともいっている。このようなエンゲ
ルスの記述は、唯物論と唯心論及び不可知論
(経験論)の三者の関係を極めて明快にしか
も偏見なく規定していると思われる。
この場合エンゲルスは「自然に対する精神
の根源性」を主張して世界創造を認める唯心
論と、「自然を根源的なものと見なした」唯
物論をまず対立せしめている。しかし彼は唯
物論者の立場から唯心論者例えばヘーゲルの
創造説をキリスト教のそれよりも困難である
と非難したけれども、「思惟と存在の同一性」
を肯定する点ではヘーゲルともある程度同調
しているのである。古来人間の思惟(理性)
が世界(存在)を完全に認識し得ると考える
哲学的立場は存在論(形而上学)や理性論と
いう名称で呼ばれて来たが、それに反対して
「世界の完全な認識の可能性を否定する」立
場は不可知論・経験論である。それ故に存在
論の内部では唯物論者のエンゲルスと唯心論
者のヘーゲルは人間の思惟(理性)が自然と
精神の何れを根源的と見るかの点で対立して
いるけれども、両者は「思惟と存在の同一性」
を肯定する点では不可知論者であるカントを
共に非難したのであった。したがって逆の立
場からいえば、カントの批判的観念論(不可
知論・経験論)は唯物論ばかりでなく唯心論
をも存在論的立場と見なして否定するのであ
る。
エンゲルスは唯心論やキリスト教の創造説
を「複雑で困難」であるといって非難したが、
唯物論者が力説するように物質が永遠の昔か
ら存在し続けて来たという一見科学的で明快
な主張も実は経験論(不可知論)から見れば
独断的で肯定し得ないことは前号で述べた。
しかし神による創造を主張する有神論的唯心
論も経験論としての批判的観念論の立場から
はやはり承認し難いけれども、その根本的理
由は人間は経験的現象を知り得るのみで人間
の理性も経験を超越した神のような存在は認
識できないという点にある。例えば古来の神
の存在証明では「存在するものには必ず原因
がある」という理性的な法則が用いられて、
世界や人間が存在するならその原因としての
超経験的な神も必ず存在すると主張されるけ
れども、カントはこの法則はただ人間の感覚
的経験の範囲内に限定されるべきで超経験的
な神の証明には使用し得ないばかりでなく、
もしそのような神を認定しても更に同じ法則
によってその神の原因である超々経験的な神
をも無限に求め続けざるを得ないこととなる
から無意味であるというのである。
このように人間はただ経験的現象のみを知
り得るのであり、理性によっても超経験的な
神は不可知であるというカントの経験論(不
可知論)的批判は神の存在証明に対して決定
的打撃を与えたといわれている。その結果超
経験的な神の把捉は理論ではなく感情的・独
断的な宗教かあるいはカントが否定した理性
の絶対性を再び復活させる哲学かの何れかに
頼らざるを得ないこととなったが、後者の立
場はヘーゲルの弁証法的唯心論である。カン
トが感覚的経験を哲学的根據としたのに対し、
ヘーゲルは「感情・感覚は最もすぐれたもの
・最も真実なもの、ではなく、最も無意味な
もの・最も真実でないもの、である」から、
「神の真の認識は、事物がその直接的存在に
おいては全く真理を有しないことを知ること
によって始まる」と主張した。
この場合彼はカントの直接的経験重視の立
場に反対してまず理性のみが神の認識手段で
あると強調したのであるが、次にその理性を
弁証法的な発展的論理と考えたのであった。
即ちヘーゲルは弁証法を単なる論理学である
ばかりでなく現実的な世界の発展法則と見な
し、また「一般に論理的な規定は絶対者の定
義、即ち神の形而上学的定義とも見ることが
できる」とも主張しているのである。
ヘーゲルのこの弁証法的・理性的有神論と
カントの経験論的不可知論の何れが正しいか
は十分な検討を必要とするけれども、前者の
立場はたしかに神に対する強力な弁護論では
あった。人間は感覚的経験を重視すべきであ
り、理性もその感覚を整理・統一するために
用いられる形式であるに過ぎないというカン
トの経験論は極めて穏当で常識的でもある。
したがってそれを打破して理性のみによる神
の把捉を主張するためには古来の理性的論理
ではない新しい推理が必要であるが、ヘーゲ
ルの弁証法はこの要望をある程度満足させて
いる。彼は弁証法を種々の形で説明したけれ
どもその基本的形式は1.直接的肯定、2.
否定、3.否定の否定という三段階の発展的
論理である。このような複雑な推理としての
弁証法は従来の静止的・分析的な論理とは異
る新しい発展的・綜合的法則であって、ヘー
ゲルが哲学史に残した最大の遺産であった。
しかしながらそれは論理学や歴史哲学には大
きな貢献であったとしても、神の証明には必
ずしも十分の効果があったとはいえない。
ヘーゲルは弁証法的発展の最終段階として
の絶対的理念を神と同一視したのであるが、
それを有→無→成という形でも説明している。
その場合カントの強調した経験的現象を単な
る有と考えてそれに対立する物自体的本質を
無と見なし、更に両者を否定の否定として止
揚する神を想定したことはたしかにすぐれた
発想であるといってもよいであろう。ただヘ
ーゲル自身もそれを成と表現しているように
この最終段階としての神も実はそのまま静止
してはならず、更に新しい弁証法的発展の出
発点とならなければならない。それ故にカン
トが否定した宇宙論的証明で神が因果律によ
り最終的原因に止まり得なかったと同じく、
弁証法的な最高段階としての神もまた弁証法
的法則そのものにより最終的実在ではあり得
ないこととなる。したがって弁証法は論理学
的法則としてはたしかに有用であるけれども、
それが直ちに超経験的な神の存在証明となり
得るかという点には疑問がある。このヘーゲ
ルの神についてはまだ論ずべき問題が多少残
っているが、次回の「経験論と人間」の場合
に更に論ずることとしよう。
小社発行『北陸の燈』第4号より
当講座記事NO.9再掲