408. 雑木林
【2025年7月1日配信】
金沢大学付属小学校教諭
正見 巖
普段、街で履いている革靴で山の急斜面
をかけ登るのはひどく難儀だった。
私の心臓は次第に波打ち、背広の下が汗
ばんでくる。
孟宗竹が密生した藪の中は太陽の光がさ
えぎられて薄暗い。ところどころに竹のこ
を掘った跡がある。しかし、私は竹のこを
目あてにやって来たのではない。
そのうちに小径は絶えてしまった。私は
ものにつかれたように、ひたすら頂上を目
指す。
現在、この山の頂上はどうなっているか。
それが私にとって関心事なのである。もち
ろん、人類未踏の山ではない。ごくありふ
れた低い山である。土地の人はヒラオの山
と呼んでいる。村はずれにあって、登ろう
という気さえあれば、ものの数分間で登る
こともできる。
つれだって来た妻は落伍した。妻にとっ
てこの山に登ることは何の意味もないから
だ。少し勾配のゆるい斜面で止まり、目で
私を追っているようだったが、私の方から
はすぐに見えなくなってしまった。
少年時代、この山へは何度もやって来た。
大人になって、時折、この山のことを思い
出してなつかしく思った。しかし、やって
来る機会がないままに三十数年の歳月が流
れた。
頂上は近い。三十数年を隔てた山頂との
対面は数秒後にせまっていた。オーバーハ
ング気味の崖がせり出していて、頂上は目
の前なのにまだ視界には入ってこなかった。
終戦前後の数年間は食糧事情が厳しかっ
た。それは現在の飽食状態からは想像でき
ないものであった。衣料、家具、指輪……
食料と交換できるものは全て交換した。食
べられそうなものはみんな食べた。南瓜の
つるや芋の葉までも食べた。人々は飢餓地
獄にあえいだ。
特に育ちざかりの子どもたちをかかえる
家庭は大変だった。私の家がそうだった。
父母は三人の子どもをかかえ、追いつめら
れた。
この山は麓に住むSさんの所有である。
父が中学生だったころの先輩にあたる。そ
んなささいな縁故を頼って、山をかして欲
しいとお願いした。虫のよい願いなのは承
知していた。だが、死ぬか生きるかの境目
であった。Sさんは快くかして下さった。
それ以来、Sさんのお宅とは今でもつき合
いがある。
山は竹藪に覆われていたが、山頂付近だ
けが雑木林であった。
父は百姓や木こりの経験もないのに、こ
こを開墾して芋畑にしようとしたのである。
にぎったことのない斧をにぎり、木を伐っ
た。太い松や無数のナラの木がおい茂って
いた。
木を伐ったあとは根を掘りおこさなけれ
ばならなかった。木の根以外に竹の根がく
もの巣のように入りこんでいた。
毎日、学校での勤務をおえてから父は一
時間もかかって、この山頂へたどり着き、
真暗になって作業ができなくなるまで雑木
林に挑んだ。血みどろ、汗みどろの作業で
ある。
土、日曜には母と私が、それに加わった。
ようやく猫の額ほどの畑ができた。雑木林
がそこだけぽっかりとあいて、太陽の光は
土をあたためた。芋苗が植えられた。
水一つやるにしても、麓までおり、小川
の水を桶に汲む。天秤棒につるして山頂ま
でじぐざぐに登る。下肥は貴重品だった。
四時間もかかって、自宅から山頂まで運ん
でくる。父が引く荷車の先綱を少年の私も
引いた。過酷な作業であった。糠鰯をかじ
って堪え抜いた。
そうしてできたサツマイモが私たち一家
を飢えから救った。
竹につかまって体を引き上げ、ついに頂
上に着く。頂上は、雑木林であった。三十
数年前に何年間か畑であったことを全く忘
れたかのように、山本来の姿にもどってい
た。
下草も茂っている。山のにおいがする。
頭の上を覆うナラの葉は光を緑色に変える。
過労がたたったのか父は早死した。やせ
た体を鞭打って、最初の斧を入れようとし
ている父の姿を私は思いうかべた。
小社発行・『北陸の燈』第4号より
当講座記事NO.54再掲
第5回「現代の声」講座提言者
テーマ:世界見たまま
イラスト 正見 巖