405. 飴の歴史
【2025年6月6日配信】
飴の民俗
加能民俗の会
前田 佐智子
一. 古代の甘味料
われわれの祖先が、「甘い」という味を、
はじめて知ったのは果実によってであるが、
甘味だけをとりだして料理にかけたり、ま
ぜたりするための甘味料の最初は、「蜜蜂」
であった。
このことは、スペインのバレンシアの、
石器時代の洞窟の壁画に蜜蜂を採集してい
る女性の姿が画かれていたり、古代エジプ
ト王朝のピラミッドから、三千年以上も前
のものと考えられる蜜蜂が発見されたこと
によっても証明される。
日本では、古くは蜜蜂のことは「蜜(み
ち)」と呼んでいた。『日本書紀』に、皇極
天皇のとき百済からきた太子・余豊によっ
て「蜜蜂の四封」が、大和三輪山に放たれ
たが失敗におわったことが見られる。
しかし、平安時代になると、わずかなが
ら相模・信濃・甲斐・能登・越後・備中・
備後などの国から産出していた。
この他には 「甘葛煎(あまずら)」「色
利(いろり)」ほか人工甘味料として最古
のものといわれるものがあり、現在もつく
られているものとして「飴」があげられる。
甘葛煎
『枕草子』に、削氷(けずりひ)にこれ
をかけて食べたという条があるが、これは、
葛の茎からとった液汁を煮つめたもので、
砂糖が一般的なものになるまで、庶民の間
で用いられていた。
色利
加賀・能登では「味噌あめ」「あめ味噌」
と呼び、味噌をつくるとき大豆 (味噌豆)
を煮るが、その煮汁をとって、さらにゆっ
くりと二日ほど煮つめ、はじめの分量の三
分の一ぐらいになったものが、それが色利
なのである。
一九八二年(昭和五十七年)に出版され
た青木悦子氏の『金沢・加賀・能登 四季
の郷土料理』に、羽咋郡富来町鵜野屋の二
十三代藤森助左衛門さんの家では、今でも
「あめ味噌」をつくっておられると書かれ
ているが、能美郡寺井町の人からも、炉辺
で、おばあさんが「あめ味噌」を煮つめて
いて、学校から帰ってくると良い匂いがし
ていて、せがんでなめさせてもらったとい
う話を聞かせてもらったことがある。
飴
『日本書紀』巻第三、神日本磐余彦(か
むやまといわれびこ)の神武天皇に「天皇、
又因りて祈(うけ)ひて曰わく、吾今當(ま
さ)に八十平瓮(やそひらか)を以て、水
無しに飴(たがね)を造らむ。飴成らば、
吾必ず鋒刃(つはもの)の威を假らずして、
坐ながら天下を平けむ。とのたまふ。乃ち
飴を造りたまふ。飴即ち自づからに成りぬ」
とある。
『日本書紀』では、飴のことを「タガネ」
とよませているが、タガネとは、掌と指と
で握り固めるという意味だから、水無しで
握り固めてつくった飴ということになるか
もしれない。
『和名抄』に、「飴、米蘖為之」とある。
金沢の飴屋の老舗「俵屋」の主人、俵外代
吉さんによれば、麦より米のほうが早く日
本に渡来してきたから、はじめは、米と米
芽で飴がつくられていたはずであり、その
後、麦が渡来し、米芽より麦芽のほうが糖
化力がすぐれているということから、現在
のような、米と麦芽とによる飴がつくられ
るようになったのではないかというのであ
る。
『延喜式』によると「糖(あめ)三斗二升
を得るには糯米一石と萠小麦二斗を用いる」
とある。
二. 飴の用途
飴はどのように用いられているかといえ
ば、金沢という一地域からだけでも、煉り
薬、ごり、くるみの飴だき、和菓子の求肥、
洲浜、酒の味付け、焼きざかなのたれ、料
理の中にと、利用範囲はかなり広い。飴そ
のものをなめるというより調味料として、
また製品の媒剤として利用されている場合
のほうが多く、金沢の小橋町の俵屋、割出
町の下田製飴所では、製品というより原料
としての飴を製造し、卸しをしているとい
う意識のほうが強い。
二軒とも取引の範囲は広く、関東・信越・
関西に及んでおり、各家庭で飴の桶を用意
し必要な量の飴を竹の皮に包んでもらって
買っていた当時よりも現在のほうが需要が
多いといわれている。食生活の変化と向上
によって、われわれの台所から姿を消して
しまった飴が、思いがけないところで姿を
かえて存在しているのである。
三. 年中行事と飴
正月の飴
金沢では、白い棒飴である。
岩手県上閉伊郡土淵村では、正月十一日
に、飴で餅を食べないと地獄に落ちて舌を
抜かれるといって、棒飴か水飴を必ず食べ
るという。
雛菓子・有平糖
雛菓子というと金沢では、金華糖がすぐ
にあげられるが、古くから有平糖(アルヘ
イとう)も雛菓子の中に加えられている。
現在では、大きい菓子屋でつくり売られて
いるが、金沢市野町の沢野良知さんのとこ
ろでは毎年、雛菓子用にと有平糖で、金華
糖と同じように鯛・野菜・花などをつくる。
沢野さんは明治四十一年生まれで、大正
十二年から昭和十二年まで石川屋で菓子職
人としてつとめ、石川屋弥一郎さんがつれ
てきた京都の菓子職人から有平糖の技術を
習った。沢野さんの話によると、金沢にも、
ずっと昔から有平糖はあったようだが、他
所からのものか、金沢でつくられたものか
わからない。何故なら昔の職人は、人に見
られないように屏風をたてて仕事をしてい
たからだという。そして、その製品の形は
今よりずっと単純なものだった。
金華糖が砂糖菓子で木型に入れて固めた
ものであるのに対して、有平糖は、太白を
晒した上等の砂糖に水を入れて煮つめその
二割ほどの分量の飴(粟飴、または餅米で
つくった飴)を入れる。そして、それを器
のまま冷水のはいった盥(たらい)の中に
浮かべ、ゆっくりまわしながら冷やす。手
頃な温度で着色し、適当な大きさに切ると、
それを助炭の中へ入れる。あとは、しん粉
細工と同じように、ひとつずつ伸ばしたり、
丸くしたり、花びらの形や葉の形にして組
み合わせ、まとまったものにしてゆくので
ある。
有平糖のほうが、金華糖の雛菓子よりも
艶があり、形もより写実的である。それは、
原料に上等な砂糖と飴がつかわれているこ
と、また、花をつくるとき、花びら、蕊萼
など別々につくり、それを組み合わせてい
くという上生菓子と同じ細かい指の先の仕
事である。有平糖は、ポルトガル語の
Aefeloa を語源とする南蛮菓子である。
「有平糖」は元禄時代頃から、型にとっ
て固めた「べっこう飴」とともに、江戸の
町民の間ではやり今に至っているが、ヨー
ロッパにもこのような「あめ細工」が存在
している。日本のほうは大道芸人的な手腕
の良さが追求されているのに対して(現在
では、茶席にも用いられるようになったが)、
ヨーロッパでは、ウィンドウ・ディスプレ
イや各種の飾り菓子などになくてはならな
い芸術性の高いものとなっている。
飴形節供
鹿児島県甑(こしき)島で四月八日を飴
形節供という。この日、だれもが飴を食べ
るという。そして寺でもらった灌仏会の甘
茶で虫除けの呪いの文字を書く。
金沢では、飴のほうの行事はないが、や
はり虫除けという意味で、甘茶で「茶」の
字を書いて台所、便所などに貼る。
氷室の飴
六月一日、金沢を中心にして、加賀の饅
頭屋の店先に、皮にうすい色をつけた餡(
あん)入りの「氷室饅頭」が並べられ売り
出される。昔は、塩味のつぶし餡入りの麦
饅頭で、饅頭の両側に包丁で切れ目を入れ、
白砂糖をはさんで食べた。その他に、煎り
米や杏を食べたり、家ごとに色々な料理を
つくった。
能登では、この日、歯固めの祝として、
米や大豆を煎りこれを食べるが、金沢では、
煎った米や大豆を熱した飴の中に入れ、杓
子でとりわけて固めたものを食べる習慣が
あって、これを「氷室の飴」といった。
夏越の飴
六月の晦日(みそか)には、諸社で「夏
越の大祓」が行われる。白山比咩神社(し
らやまひめじんじゃ)では、参詣人に「麻
の切草」と、「人形(ひとがた)」が渡され
る。 参詣人は、「麻の切草」を体にふりか
け「人形」で体をぬぐう。その「人形」は、
神職が茅で編んでつくった船に集められ、
祝詞があげられる。この茅の船はあとで手
取川に流される。
祝詞のあと、青い茅でつくった輪をくぐ
る「茅の輪くぐり」となる。神職を先頭に、
巫女、一般参詣人という順序で、古歌「水
無月の夏越の祓ひする人は千歳の命延ぶと
いふなり」を唱しながら、三度くぐるので
ある。
神職の話によると、青い茅の生気にふれ
ると体が丈夫になり、一年間病気をしない
ですごすことができるというのだが、『 備
前風土記』によると、昔、素盞鳴尊が南海
の神の娘のところへよばいにゆかれ、日が
暮れたので、金持ちの巨旦蒋来(こたんし
ょうらい)の家に宿を借りようとされたが
断られ、巨旦の兄の貧しい蘇民蒋来(そみ
んしょうらい)の家で歓待された。素盞鳴
尊は後年、八柱の御子神をひきいて再び蘇
民を訪問され、蘇民を賞し、巨旦の一家を
殺してしまわれた。その時、蘇民一家に与
えられたのが「茅の輪」で、これを腰に付
けていたため、一家は巨旦の全滅にあたっ
ても、まったく害を受けることがなかった
とあるが、これに由来するといわれている。
「茅の輪くぐり」がおわると、神職が祭
壇から飴のはいっている三方をおろし、「
ただいまから、夏越の飴をお渡しいたしま
す」といいながら、参詣人に「飴玉」を二
個ずつ配るのである。
印鑰神社の飴の祭
石川県七尾市の印鑰(いんにゃく)神社
の七月十四日の納涼祭には、飴屋の露店が
多くでることから、「アメノマツリ」「アメ
マツリ」というのである。今は一軒だけ、
地元の飴屋が祭のときだけ飴を煮て売って
いるということである。
鶴来町の飴なめ
七月十七日は「十七夜」ともいって、白
飴を買ってきて食べるのである。これは、
昔、鶴来町の安久濤淵(あくどがぶち)で、
飴売りの行商人が野武士の試斬りに遭った
ことに、人々が同情しその妻の飴を全部買
ってやったという伝承にもとづくものであ
る。このときの飴は、赤飴をたぐって空気
をまぜて白くしたものである。
金沢の祭の飴・つけ飴
祭には種々の露店がでるが、その中でど
この祭にでもきているというのが「飴売り」
である。べっこう飴・棒あめ・あめ玉・氷
飴・つけ飴などがある。
「つけ飴」 は、以前、金沢の野町広小路
の神明宮のお祭に「つけ飴」をだしていた
金沢市芳斉町の北一商店の山本三郎さんは、
大阪で飴つくりの修行をしてきた人だが、
これは金沢独特のもので他県にはなかった
といわれた。
「つけ飴」 は、割箸に丸く飴をつけたも
のであって、赤飴と黄粉をまぜた飴との二
種類がある。以前は、割箸ではなくて、麻
の茎に飴をつけて売っていたので、 「麻ア
メ」とも称していた。
最近は、原料高によって、米飴から澱粉
飴がつかわれるようになってきたが、固ま
らずすぐ流れてしまうので、今までのよう
な「つけ飴」はできず、氷の上で割箸に飴
をつけ、缶詰のみかんを一袋ずつ飴でくる
んで、「氷飴」「みかん飴」として売られて
いる。
四. 産育と飴
お産見舞いー祝い飴
出産祝いの他に、お産見舞いとして飴を
贈る習慣があった。『和漢三才図会』に、
補虚、冷益気力、止腸嗚咽痛、治吐血、
脾弱不思食人、少用能和胃気、
とあるように、産婦の体力をつけるという
意味で用いられた。飴はすでに消化の状態
にあるので、病人ばかりでなく産婦にとっ
てもたいへんな滋養食だったのである。
石川郡美川町で、昭和四十年頃まで飴屋
であった宮竹清次さんのところでは、「安
産飴(やすまるあめ)」 という名をつけた
飴を売っていた。これは、美川町の西部の
低地を流れる安産川(やすまるがわ)の名
をとったもので、飴も安産川の寒のときの
水でつくったからだという。
いつ頃からつくられていたものかはっき
りしないが、鑑札には明治四十二年三月三
十一日の日付があり、また、明治三十六年
の引札が残っており、「美川今町、 元長谷
長松事・宮竹重間」とある。さらに昭和五
年八月十八日振出しの為替手形には、「石
川県美川町・安産飴製造宮竹重間」と書か
れている。宮竹重間は、宮竹清次さんの実
父である。安産川のことは『石川郡誌』に、
…… 此の川を蓮理川といひしが、久安
元年(一一四五年)六月、此の川の側
より仏像を掘出し、爾後河水日に清澄
となり、産婦之を飲めば平産の効あり。
依って安産川と改称すといふ。歌あり
「 汲みて見よ安産川の法の水ふかきお
もひは人の子のため」……
という伝説が書かれている。
子育ての飴ー母乳の代用
乳がでなかったり、少なかったりした母
親は、飴をガーゼなどで包み、赤ん坊に吸
わせた。餅米でつくった飴の場合は、上顎
に飴をはりつけておくと、ひっついたまま
飴が溶けて喉のほうにいき、決して喉につ
まらすということはないので、母乳の代わ
りとして飴をつかったという。
このことは、消化機能の未発達な赤ん坊
に飴が適しており、栄養があり、扱いやす
いということによったのだと思われる。
また、金沢には「飴買い幽霊」の伝説が、
金石の導入寺、山の上町の光覚寺、寺町の
立像寺にあり、「飴買い地蔵」の伝説が、
寺町の西方寺にある。
「飴買い幽霊」 の伝説は、臨月で死亡し
た女が墓の中で子を生み、その赤ん坊のた
めに幽霊となって飴を買いにいき、あやし
まれて飴屋にあとをつけられ、赤ん坊が発
見され、お寺で育てられ、成人して立派な
お坊さんになるというのが、だいたいの筋
である。
「飴買い地蔵」のほうは、 臨月で死んだ
女の墓の中で生まれた子のため、地蔵さん
が男の人の姿になって飴を買いにゆき、飴
屋にあやしまれてあとをつけられ、赤ん坊
が発見され、お寺で育てられたというふう
に、前述のと同じ話になっている。
金石の導入寺には、発見された赤ん坊が
寺を継ぎ、前代の和尚の徳と亡き母を偲ん
で円山応挙に頼んで画いてもらったという
幽霊の掛軸がある。
寺町の西方寺には地蔵さんがあるが、こ
れは、成人したそのときの赤ん坊が寺に贈
ったものとされており、毎月二十四日には、
地蔵講がひらかれ、子供たちの守り神とし
て信仰されている。このような伝説は金沢
ばかりでなく全国的にあるが、それは、飴
が昔から母乳の代わりになると多くの人々
から認められてきたからであろう。
千歳飴
十一月十五日の「七五三」の「千歳飴」
については、『還魂紙料』に次のように書
いてある。(『古事類苑』 飲食部十三 飴
所収)
元禄宝永の比、江戸浅草に七兵衛とい
ふ飴売あり、その飴の名を千年飴又寿
命糖ともいふ、今俗に長袋といふ、飴
に千歳飴と書こと、彼七兵衛に起れり、
生質酒を好で世事にかゝはらざるの一
奇人なり、今様廿孝二の巻に曰、千年
の七兵衛といふ飴売あり、楽に養ふ子
あるに、いかないかなそれにかゝらず、
江戸中を空にして童にねぶらし、価の
其銭をすぐに処々にて酒にして、春秋
の栄枯を息なし呑の一盃にらちをあけ
て、年のよらぬ顔をひさしく見ること、
頬髭をかこち給ふ、堺町のさる野良の
あやかりたしとまうされぬ云々、宝永
六年にひさしく顔を見るとあれば、貞
享或は元禄の初より、其名を人に知ら
れたる歟
小学館『国語大辞典』の「千歳飴」には、
一六一五年(元和元年)、 大阪夏の陣
で豊臣家が滅亡し浪人となった平野甚
左衛門の一子甚九郎重政は、摂津国平
野村に住み飴製造を業としていたが、
後に江戸に出て右衛門と改名して浅草
寺境内で、 「千歳飴」と名付けて売り
だしたところ、江戸の人々の好評を得
た。さらに、一六九七年(元禄七年)
には、飴売り七兵衛が千歳飴を売り歩
いて好評を博した。
とある。
子供の棒飴売りー美川町
七、八歳から十二、三歳ぐらいまでの子
供が、棒飴を入れた小箱を抱えて「飴やぼ
うあめ」と連呼しながら売るのである。彼
らは親からもらった一銭か二銭の銭で飴を
買う。飴屋から一銭につき十五本の棒飴を
もらい、一本一厘で売る。一銭の元金が、
一銭五厘になることが魅力となり、子供た
ちは競って棒飴売りをやりたがった。上流
家庭などは親が許さないので、その家庭の
子供たちは飴売りの子供について歩き、親
や親戚に買わせた。
期間は、十一月二十日秋の恵比寿講から
翌年一月二十日春の恵比寿講で終わるが、
その期間中にあるお七夜には、お年寄りの
集まる町内八か寺で売ってかなりの利益を
あげた。なにせ子供のことで長つづきする
ものでなかったが、貧しい家の子供たちは
昼夜の別なく風雪をおかして売り歩いた。
『美川町史』 によれば、このことは明治
中期に絶えてしまったことになっているが、
元飴屋の宮竹さんは、売り値一本五厘の飴
を三本一銭で子供たちに渡していたと話さ
れており、宮竹さんの年齢から昭和にはい
ってもこの風習はあったと考えられる。
飴屋坂の子供の車押しー金沢
「飴買い幽霊」の伝説で知られている山
の上町の光覚寺の前、森山小学校へくだる
坂が現在、飴屋坂といわれている。
日置謙編の『加能郷土辞彙』には、飴屋
坂は、
金沢犀川川上新町辺の河原へ下る坂の
附近に飴を商う小家があったので、そ
の坂を飴屋坂と呼んだといふ。変異記
に亨保七年二月九日犀川川上新町酒屋
大桑安兵衛とあめや坂の間の町家焼失
したとある。今は坂道らしい体を存せ
ぬ。
とある。現在、飴屋坂と呼ばれるあたりも、
飴屋が多かった。光覚寺前には籾谷という
飴屋があり、その坂をくだってさらにいく
と小橋町の俵屋に着くのである。
光覚寺で聞いた話だが、寺の前の飴屋坂
が急なので飴屋の大八車が動かなくなる。
近くの子供たちに頼んで押してもらい、お
礼に飴をわたす。それで子供たちは飴がほ
しくて毎日飴屋の車を待っていたというこ
とである。
飴買うて笹やるかー加賀市・江沼郡
「良いところはくれず、不要なつまらな
いものだけくれる」という意味である。
飴屋が飴を売りにいったおりに、その家
の子供におまけとして飴を笹の葉にくるん
で渡すのが常識みたいになっていた。それ
で、子供は期待しているのだが、もらえな
かったり、飴の量が少なかったりすると、
飴屋にむかって、「飴買うて、 笹くんさっ
た」と、からかった。それが「飴買うて、
笹やるか」という言葉になって、別の場合
でつかわれるようになったのである。金沢
でもこの言葉があったらしく、俵屋の社長
さんも「飴買うて、笹やるか」という言葉
を知っておられた。
飴屋は、子供用の飴・白飴は笹の葉で包
み、料理用につかう固飴は竹の皮で包んで
お客に渡した。笹も竹の皮も飴がひっつか
ないためと、今村充夫先生から教えていた
だいた。 新潟の「越後のササアメ」、七尾
の「大豆飴」も笹の葉や竹の皮で包んであ
る。「大豆飴」 のように、麦や大豆の粉を
飴で煉ったものを「飴ちまき」という、と
『嬉遊笑覧』にでている。
竹の皮は、孟宗竹のものが良く、竹藪を
もっている農家にたのんだり、業者から買
ったりした。この業者は、子供たちをつか
って竹の皮を集めさせ、飴を駄賃としてあ
たえていたので、子供たちは喜んで協力し
ていたという。
飴買い銭
子供へ渡す小遣い銭のことである。祭の
ときや、子供から菓子などをねだられたと
き渡す銭を「飴買い銭」という。甘くて簡
単に手に入れることのできるものが「飴菓
子」であり、そのために祭には、たくさん
の飴の店が並び、子供をそこへ走らせたの
であろう。
日なか玉
丸く大きな固い飴(飴玉)を「日なか玉」
と呼ぶ。庶民にとって甘い菓子は、贅沢品
であった。それで親たちは、子供には日な
かじゅう、口の中にある固い飴をひとつ、
おやつとしてあたえた。それでこの名前が
付けられたのである。
五.薬用としての飴
(一)おばこの実を飴の中に入れて、六月、
盛夏の前に母親が家じゅうになめさせ
て夏負けの予防にする。
(二)松葉を飴の中に入れて神経痛の薬と
する。
(三)マムシを焼いて粉末にし飴に入れれ
ば、強壮剤になる。また、結核にもい
いという。マムシとりは、酒屋に、ま
た飴屋にとったマムシをもってゆき、
酒と交換したり、飴と交換したりした。
(四)大根を切って、その切口に飴をかけ
ておくと、大根から汁がでてくる。こ
の汁は咳止めになる。
(五)飴を湯にとかし、それを沸かし、あ
ついまま飲む。夏、「アメユー」という
売り声で振売りがくる。生姜汁を入れ
たものもある。海水浴の遠泳の際には、
必ずといっていいほど「飴湯」がでた。
疲れがとれるということである。盆踊
りのときには、冷やしたものがだされ
た。
(六)地黄という薬草の根を煎じた汁を飴
に入れて、食べやすくしたものを地黄
煎飴という。俵屋でも人に頼まれてつ
くったことがあるという。石川県がま
だ結核県といわれていた頃、結核患者
にあたえるためだったらしかった。最
近の漢方薬ブームでつくってほしいと
いってくる人もあるが、薬草と飴との
調合がむずかしく、間違うと害になる
ので断っているという。
金沢には、現在の泉野町の一部に、
地黄煎町(じおうせんじまち)という
町名があった。このあたり、地黄とい
う薬草が多く採集され、地黄煎飴がつ
くられていた。
文久元年(一八六一年)の「加賀藩
産物番付」に、「地黄煎丁飴」 の名が
見える。「地黄煎」は、 禁裏で医師に
命じてつくらせたものであったが、の
ちには地黄を入れなくても「じょうせ
ん」もしくは「ぎょうせん」と呼んだ。
現在、関西では「水飴」のことをいい、
加賀では「固飴」のことをいう。
(七)漢方の薬屋から、黄みがかった粉末
の「益気湯」 という薬を買ってきて、
生胡麻をすり、水飴で煉って食べやす
い状態にする。夏負け防止のために各
家庭でつくった。
2024.6.23朝日新聞、飴をつくって200年「飴の俵屋」
飴ができるまで 俵屋HPから
六. 飴屋
明治四十年に発行された『螢苑』という
文芸誌に、佐々木喜善氏の「長靴」という
文が載っている。
バスが通ったあとは、春の日がぽかぽか
真白い光を通りに流したばかり、テンテ
ン、カラカラ飴屋も通らない。
というのがある。情景描写の中に、飴屋の
ことがでてくるというのは、その当時の人
にとって、われわれが町で見かける豆腐屋
と同じような存在感を飴屋にもっていたと
いうことになるであろう。
『稿本金沢市史 風俗編』の第十三章商
工、第二節工業において、年代不明である
が、飴商売四十一人、また明治十二年民業
には、飴製造業二十四戸、明治十八年八月
に結成された飴商組合の規約によると、組
合員十二名となっている。
これに対して、明治十八年六月十五日付
で菓子営業願が、金沢区英町の荒木新平か
ら戸長を通じて金沢区長にだされ、同年七
月一日付で許可されている。この営業願は、
加能民俗の会の会員の荒木豊氏の家に保存
されているもので、新平さんは士族であっ
たが、維新後、生計をたてるために飴屋を
営まれたという。このような菓子商と飴商
との区別が曖昧なことから見ると、飴屋の
数はもっと多くなってくるはずである。
『加能民俗』九-五、北島俊朗氏の「金
沢・浅野川の舟着場・堀川揚場」に、
堀川揚場の所在地は、浅野川下流左岸に
位置し、昭和五十七年十一月現在笠市町
一二番、一三番及び瓢箪町九番である。
(中略)
川の流れが強くてサオ使いが、下手であ
るとよく舟は顚覆した。川中に落ちた米
は、酢屋、こうじ屋へ売る。
とある。山森青硯先生によると、日置謙先
生が川筋には飴屋が多いといっておられた
ということで、飴屋は水運の便のあるとこ
ろの荷揚げ場付近に多い。水運ではこんで
きた米を陸にあげるときに、川にあやまっ
て落としたりすると、屑米として飴屋など
にもってゆくほかはなかった。浅野川は小
橋の横が荷揚げ場で、俵屋があり、犀川は
新橋のふもとが荷揚げ場で、荒田(上伝馬
町、荒田小太郎)という飴屋があった。山
森先生はこのように話された。
明治十八年の飴商組合の組合員は、全部、
浅野川筋から大樋町までの飴屋ばかりであ
るから、これと別に、犀川筋を中心とした
飴屋の集団があってもいいはずである。『
加能郷土辞彙』の「飴屋坂」は犀川筋であ
る。金沢では、犀川寄りの寺と浅野川寄り
の寺とは、昔はほとんど附合がなかったと
いう話を聞いたことがあるが、商売にもこ
ういった傾向があったのではなかろうか。
戦後になって、昭和二十四年五月に、「
石川飴工業協同組合」が結成され、全県か
ら二十九名が組合員となった。その後、組
合員は少しずつ減り、昭和三十七年には五
名、現在、石川県で米から飴を製造してい
る家は七軒、そして、そのほとんどの飴屋
が後継者問題で頭を抱えているのである。
参考文献
『たべもの古代史』 永山久夫 新人物往来社
『あめ細工』 吉田菊次郎 柴田書店
『郷土誌』 石川県鶴来小学校編
『俳句歳時記 夏』 平凡社
『北陸俳句歳時記』 石川県俳文学協会編
荒木豊、今村充夫、大林昇太郎、北島俊朗、
香村幸作、田中政行、牧野隆信、山森青硯、
浅香美代子、三田登美子の諸先生に教示を
得た。
俵外代吉(俵屋)、下田嘉枝(下田製飴所)、
沢野良知(有平糖)、山本三郎(北一商店)、
宮竹清次(元飴屋)、松尾外吉(元飴屋)、
佐竹修(七尾市がめの煉薬)の皆さんには、
たいへんお世話になり厚くお礼を述べたい。
『加能民俗研究』第12号より
小社発行『北第の燈』第5号に掲載
第8回「現代の声」講座で上述と同趣旨の提言
当講座記事NO.142~145再掲
〈参考〉
文中に登場する市町村
石川県金沢市
石川県七尾市
石川県加賀市
石川県羽咋郡富来町(現羽咋郡志賀町)
石川県能美郡寺井町(現能美市)
石川県石川郡鶴来町(現白山市)
石川県石川郡美川町(現白山市)
岩手県上閉伊郡土淵村(現遠野市)
鹿児島県甑島(薩摩川内市)
新潟県新潟市
当講座NO.85にも前田佐智子さんの記事が掲載。
当講座NO.35の梅時雄さんの記事も併せて参照
していただきたい。
当講座記事NO.311から