245. 近代仏教研究の魁・笠原研寿
【2022年4月20日配信】
笠原研寿の英国留学
高畑 崇導
笠原研寿(一八五二~一八八三年、嘉永
五~明治十六年)は三十一歳で夭逝した。
その生涯は、人の一生で最も重要な、充実
する青年期に「日本の学問の未踏の分野」
にふみいる幸運に出会いながら、その成果
を見ずに逝った。
笠原研寿(以下、研寿)の充実した青年
期とは、二十四歳(一八七六年、明治九年)
から二十八歳(一八八〇年、明治十三年)
までの英国留学期間であった。そして日本
の学問の未踏の分野とは、サンスクリット
語による「仏教経典、典籍の研究」であっ
た。
それは日本の仏教の学問と信仰は、日本
への仏教移入の時から「漢訳の仏教典籍」
によっていた。それをサンスクリット語典
籍に学ぶというのは、日本の仏教が「大乗
仏教」であり、研寿の所属する真宗大谷派
はサンスクリット語を原典とする「浄土教
典籍」を所与とする思想と宗派だったから
である。
研寿が英国へ入った一八七〇年代後半の
欧州の仏教学研究は、上座仏教、パーリ語
研究であった(注1)。その始まりと背景
は、欧州列強の東洋への接近であった。社
会的には英国のインド支配、宗教的にはキ
リスト教の東方伝道だった。そこには東洋
の中心思想の一つである「仏教」とその言
語である「パーリ語」とによる「東洋人の
思惟の方途」を学ぶ必要があった。
欧州での仏教典籍翻訳の嚆矢は、研寿が
英国に入るおよそ二十年前だった。一八八
五年の、上座仏教典籍・ 『 ダンマパダ 』
(Dhammapada -法句経)のパーリ語から
ラテン語への翻訳と注釈書の出版だった。
デンマーク人のインド学者・ファウスベル
(Fausbøll, Michael Viggo 一八二一~一
九〇八年)の成果だった(注2)。
この労作により、欧州では仏教とは『ダ
ンマパダ』(法句経)であり、仏教研究は
「パーリ語で上座仏教を学ぶことである」
ということが定着したといわれる。このこ
とは研寿がロンドンで英語の訓練を受けつ
つ、サンスクリット語を学ぶ準備をしてい
た時、欧州の仏教研究を牽引した碩学の一
人、ロンドン大学のデービス教授( T. W.
Rhys Davids 一八五七~一九四二年)から
「仏教研究は、パーリ語が優先する」と説
得され、教授の著書までもさずかったこと
からも頷ける。
この考え(パーリ語研究・上座仏教研究
が優先する。)は、上座仏教のパーリ語典
籍が「仏陀の金口・聖句の記録」であるの
に対し、サンスクリット語の大乗仏教典籍
は、仏陀の死後五〇〇年ほどして成立して
いるので、それらは「仏陀の思想」を大乗
仏教経典という編纂形式を定型化して、そ
れにのっとり文章化(サンスクリット語で)
しているからである(注3)。
デービス教授は、一八八一年(明治十四
年)にロンドンで「Pāli Text Society(パ
ーリ聖典協会)」を成立させた。そして一
九一二年(明治四十五年)までにパーリ三
蔵のうち『経』(仏陀の金口・聖句)と『
論』(金口・聖句の哲学解説)の二蔵をほ
ぼ出版した(いま一つの蔵は『律』であり、
それは出家者の戒、信者のたしなみを教え
ている典籍である。)。
他方、研寿が師事することになったマッ
クス・ミューラー教授は、一八八一年(明
治十四年)にパーリ語『ダンマパダ』(法
句経)を英訳した。世界で最初の「英訳『
ダンマパダ』(法句経)」だった。この出
版の年は、研寿がミューラー教授の膝下に
いた時である。
そのような環境の下で、教授は研寿にパ
ーリ語、上座仏教研究を学ばせようとした
経緯があったが、最終的には、研寿の希望
するサンスクリット語研究を指導してくれ
た。
さらに教授は、自分の出席するドイツで
の国際学会に研寿を伴ってくれた。そして
帰路、研寿とともにフランスに立ち寄り、
その地の図書館で、サンスクリット原典を
研寿のために借り出しもしてくれたのであ
る。
研寿は留学が五年を過ぎたころ、肺疾に
罹っていた。気づいたミューラー教授は医
師の診断をあおぐよう手配してもくれた。
それは教授の研寿への思いと配慮とは別に、
医師の強い指示で研寿の帰国が決まった。
研寿は、教授の下で完成させたいくつかの
成果と未完の原稿を教授に託して帰国した。
教授は研寿をセイロンに立ち寄らせ、そ
の地の長老僧との出会いを取り計らった。
研寿はその地で南方仏教(上座部)、北方
仏教(大乗仏教)について対論を果たす機
会を得た(注4)。
さらに教授は研寿から託された成果をオ
ックスフォード大学から出版した。一八八
五年(明治十八年)の 『法集名数経』(
Dharma-samgraha)がそれである(注5)。
けれど研寿は帰国後八ヶ月目の一八八三
年(明治十六年)七月十六日に逝ったため、
この己の学問の成果を見ることはなかった。
いま、研寿への南条文雄の「顕彰碑碑文」
とマックス・ミューラーの「追悼文」を読
む時、碑文からは研寿の学問の意志形成の
過程が読みとれる。追悼文からは、学問を
物の理として究めようとする西欧知識人で
あるマックス・ミューラー教授が驚嘆した
「研寿の学問の態度」が綴られている。そ
れは、「日本人・研寿」の情念、すなわち
人倫的、美的、学問の態度のことである、
といえる。
その意味は、研寿には自分が所属する教
団から派遣されたことへの恩顧、欧州の碩
学・東洋学の泰斗の師マックス・ミューラ
ーに対する客気・忠誠心(注6)、そして
所属する宗派の所与の教典を原典のサンス
クリット語に日本人で初めて学んでいるこ
とへの使命感の表われであったようである。
注(1)欧州のインド研究の最初期の一
つは、一八四七年の聖典「リグ・ヴェ
ーダー(Rig Veda 最古の知識・聖典)
の出版が挙げられる。
バラモン教の根本聖典でインド最古の
宗教文献(自然現象を賛美した詩文・
叙情詩一〇巻、一〇二八の讃歌を収め
る。)であり、インド思想理解の文献
の一つである。この聖典を研寿の師・
マックス・ミューラー教授が英国東イ
ンド会社の依頼、援助で一八四七年、
出版を成就した。
東インド会社(East India Company)
は英国で一六〇〇年、オランダで一六
〇二年、フランスで一六〇四年に設立。
いわゆる貿易会社であるが、商権拡大
のため東方の植民地経営にも進出して
いた。
注(2)Dhmmapadam. Ex tribus
codicibus Hauniensibus Palice
edidit, Latine vertit, excerptis ex
Commentario Palico notisque
illustravit V. Fausbøll. Hauniae,
1855.
注(3)巴利語(パーリ語 Pāli)・梵語
(サンスクリット語 Sanskrit)につい
て一瞥すれば、パーリ語とは、古代マ
ガダ語の要素を含んだ西インド語系統
に属する言語であり、「聖典」、「正
典」という意味(聖語、聖句を表記す
るための文字と理解できる。)。この
言語で仏教典籍が記述されはじめた理
由は、仏教を受容・伝持していく地域・
国々で多様な方言・言語で交わされる
思想の往来が煩雑になることから、「
共通語」として、「経典」「仏教典籍」
の言語として、パーリー(聖典、正典)
の言語として共通させた。
梵語はインドの「標準文章語」である。
この言語が仏教典籍の記述に用いられ
たのは、巴利語に比すれば非常におそ
い。仏陀の入滅から数世紀も経てから
仏教の哲学論書、注釈書(アビダルマ
abhidharma)が成立した。そして、
そのことによって仏教と他のインドの
哲学諸派との対論がなされはじめるこ
とになった。そこで共通の言語の必要
が生まれた。そして「インド標準文章
語」である梵語(サンスクリット)が
用いられた。
注(4)この時、セイロンの僧から研寿
がさずかった『貝多羅葉経』(葉が、
研寿の生家・恵林寺に伝わる。)は、
多羅樹の葉にクギで経文が刻まれた
もの。
注(5)"Dharma-Samgraha"Prepared
for publication by kenjiu kasawara,
ed. , Max Müller Heinrichi Wenzel
Anecdota Oxomensia,1-4
Univarsity 1855. (オックスフォード
逸書, 第一輯第四巻. 一八八五年)
これは研寿の遺稿をマックス・ミュー
ラー教授と教授の門下生でドイツ人の
チベット学者 Heinrich Wenzel(1955
-1893) が校閲し、刊行された。
注(6) 「客気」は、歴史心理学のひそ
みにならえば、青年期に見られる心理
動向、『忠誠心』(Fidelity)のこと。
研寿が自分の学ぶ師マックス・ミュー
ラー教授にその恩顧の度合いを示そう
とする激しい学びの態度のこと。
Frik H.Erikson, "Insight and
Responsibility" chapter4.
Norton company, 1964.
〈参考〉
たかはたけ・たかみち
1941年高岡市生まれ。
カナダのマクギル(McGill)大学大学院
終了、M.A.取得、歴史学・宗教学専攻、
同大学助手、ケベック州政府を経て富山
大学非常勤講師などを歴任。現在、高岡
市の誓願寺(浄土真宗本願寺派)住職。
師に中村元氏がいる。
著書に、
『仏教経典叙説』隆文館
『笠原研寿の学問』探究社
『仏教経典の編纂とその伝播』
平楽寺書店
『Young Man Shinran -A Reappraisal
of Shinran's Life-』
Wilfrid Lanrier University Press
『北陸の学僧、碩学の近代 存在証明の系譜』北國新聞社
中村元 - ブッダの生涯
〈後記〉
上の文中にある笠原研寿の顕彰碑は、
研寿生家の恵林寺すぐ近くの富山県
南砺市城端の善徳寺門前にあります。
後日、この南条文雄による顕彰碑碑
文の原文・書き下し文と上記マック
ス・ミューラーの研寿追悼文原文及
び訳文(高畑崇導訳)を紹介します。