411. 混迷する現代と統一協会(3)
【2025年7月11日配信】
親友ヨッチにささげる手記
-最期まで友情を信じて-
石川県河北郡津幡町
書店員 22歳 酒井 由記子
人は、どんな人と巡り合うか、どんな本
と出会うかによって人生が決まってくると、
ある作家が述べていたのをふと思い出す。
私にとってはまさにそうであった。出会っ
た人達も書物もとても大きな影響を残し、
忘れられない出来事となっていったのであ
る。
一、高校生の頃
今から六年前(1977年)、私は金沢
二水高校の二年生であった。いや二年生と
いうより吹奏楽部生というほうが適切であ
るほど私は部活動に情熱を注ぎ込んでいた。
みんなでマラソン、腹筋運動をしてからだ
を鍛えあげ、各パートごとでロングトーン
をして基礎固めをなして、全員そろって校
舎中いっぱいに響きわたるハーモニーを歌
いあげる。それは、先輩、後輩、仲間達の
一致によって一つの音楽をつくり出すとい
う喜びを存分に味わった私の青春時代の真
っ盛りであった。ただ残念なことは、部活
動に熱中すればするほど勉強のほうはさっ
ぱり力がはいらなかったことである。中学
生のときは、「進学校にはいるために」と
いうただそれだけの目的で受験勉強ができ
た。しかし、いざ高校にはいってみると、
また「いい大学にはいるために」と先生方
が口をすっぱくして押しまくる文句に素直
になれなかった。勉強する本当の意味が見
出せなかったのである。その頃から、私は
人間は何のために生きるのだろうかという
ことまで突っ込んで考えるようになってい
った。
父母が書店を経営しているため本は充分
にあり、書物を読むことによって答えを見
出そうとした。私の強い求めに応じるかの
ように一冊の本が転がり込んできた。クリ
スチャン作家である三浦綾子さんの『あさ
っての風』という随筆集であった。聖書の
言葉がそこに登場しており、それはズシリ
と心に響いたのである。その本に魅せられ
て三浦さんの自叙伝も何冊か読み進めてい
った。しだいに私の魂は、人間をはるかに
越えた大いなる存在があることを感じてい
った。確信までは至らなかったけれども、
それらの本によって金沢のプロテスタント
の教会に足を運び、牧師さんのお話を聞く
ようにもなっていった。
週に一度は教会に通うようになったもの
の、様々な人間関係の渦の中で悩みは尽き
なかった。先生の授業の仕方に矛盾を感じ
たり、また、クラスメイトの他人に対して
無関心でありながら陰で悪口を言う姿勢に
むなしさを覚え、さらには自分自身の内面
の罪に苦しんだ。教会で話されるキリスト
の教えが戒めとなり慰めになりはしたが、
現実の問題を具体的にどう対処していった
らよいかわからなかった。
二、統一協会との出会い
その年の十二月一日のことである。師走
にはいり、金沢の片町の夕暮れ時は、車の
騒音と帰りを急ぐ人達でいちだんとせわし
ないものであった。私は部活動を終えてか
らの帰り道、行きかう人にぶつかりそうに
なりながら歩いていた。
「アンケートにお答えください。ちょっと
の時間でいいですからお願いします」
だれかから呼びとめられた。最初は避け
ようと思ったものの、その人のさわやかな
笑顔にひきずられて私は立ち止まった。そ
の時はまだ知るよしもなかった。これが、
後に自分の人生の軌道を思いもよらぬ方向
へと変えていった統一協会との出会いの始
まりであることに。
「今、幸せですか? どんなことに関心が
ありますか?」
と、質問してくる清純なその人は、金沢
大学の女学生であった。私は、真剣で生き
生きしている彼女の雰囲気に、しだいにの
み込まれていった。そして、この人は私の
持っていない「何か」を持っていると感じ
ていった。
この金大生は、その統一協会に属してい
て、『原理研究会』という別名のグループ
のもとで、大学で活動している女性であっ
た。私は次の日にそのお姉さんが誘う原理
研究会の寮『成愛寮』に行くことを約束し
た。
ところで、高校の同じクラスに、ヨッチ
という友人がいて、実は彼女も中学生の時
からその成愛寮に通っていて、前から私に
誘いの声をかけてくれていたのだった。不
思議な摂理めいたものを感じつつ、翌日、
興奮さめやらぬ思いでヨッチに案内しても
らった。
緊張している私に、そこの学生達は、優
しくて親切にしてくれるのであった。
その時の私は「人間を見る・把える」と
いう智慧が養われていなかった。それは、
その人の成長に従って身についてくるもの
であり、社会に生きていくうえで大切なこ
とである。勉学とは、人間の知性・知能を
伸ばし、精神を高め、心を豊かにしていく
うえで、基盤となるものなのであろう。未
熟であった当時の私は、人を表面的にしか
わからなかったのである。
やがて高校三年に進級し、ヨッチとまた
同じクラスになった。ところがその頃は、
親にも友人達にもその原理研究会に行くこ
とを反対され、ヨッチとつき合うことさえ
もいい顔をされなかった。私の通っていた
教会の牧師さんにも次のように教えられ、
反対もされた。
統一協会、その正式名称は『世界基督教
統一神霊協会』といい、文鮮明なる人物を
教祖として1954年5月1日に韓国ソウ
ル市にて発足した団体で、その創始者であ
る文氏は、元々は、金百文という韓国の「
イスラエル修道院派」を主宰する人物の弟
子であった。それは、別名血分け派とも呼
ばれる混淫派の一つで、聖なる意識のこも
ったセックスによって人を救う「精神神学」
なるものである。日本には1958年に西
川勝宣教師によって布教が開始され、19
59年に東京の渋谷に本部が創立された。
日本では、現在、二十六、七万人の信徒が
いるという。また、アメリカ、ヨーロッパ、
アフリカ、南米、オーストラリアにまで及
んでいる。政治面では、『国際勝共連合』
という別名のもとに激しい反共活動を展開
している。この著しい発展の陰には、信徒
達の昼夜を問わない伝道、経済活動がある。
パンの耳をかじりながら、チリ紙交換や廃
品回収等の活動から始めていき、繁華街で
花束を売り、今日では、珍味、昆布、人参
茶から印鑑、大理石の壺、多宝塔など何十
万、何百万もする高額な商品の訪問販売に
広がり、その総収益は計りしれない。何千
組という信徒を教祖・文鮮明氏は、一挙に
組み合わせて幾日も経たないうちに合同結
婚式を挙行するという、世間の人々の目を
見張る動きまでしている。それらは世界中
に大きな波紋を呼んでいるという。
以上のようなことなどを、その牧師さん
から詳しく聞かされ、私は、愕然となって
しまった。そしてヨッチにこのことを正し
た。しかし、統一協会員である彼女は、少
しも動揺することなく、むしろ根気よく私
を説得してきたのである。
「私達の協会が血分けの思想の協会である
とか言われているのは知っているわ。でも、
それが本当であったら私はやめているわ。
お父様(文氏のこと)の目を見たら、そん
なことをする方かどうかがすぐわかるわよ。
また、政治運動のことだけど、この乱れた
社会を改善するには、宗教だけではもうで
きないの。科学、文化、政治などのあらゆ
る分野から取り組まなきゃならないのよ。
世間では色々と批判されているけど、それ
で判断するのではなく神様に聞いてみたら
いいのよ。由記ちゃんに教えてくれたその
牧師さんの言うことを信じるか、私の言っ
ていることを信じるか、これは難しいけど、
祈って神様に聞いてみてね」
「信じる」ということはどういうことで
あろうか。私はみんなの板ばさみになって
しまい、頭をかかえ込んでしまった。悩ん
だ末、取った結論は結局こうであった。今
は、いったいだれが正しいか、何が本当な
のかわからないから、容易に統一協会にも
はいるまい。これからよく勉強し、研究し
ていくうえで、それでも統一協会が正しい
と判断できたら、はいるのはその時でも遅
くはないであろう、と思ったのである。
三、友情というかけ橋
ところが思いに反して、私のそばには絶
えずヨッチがいたので、結局統一協会員で
ある彼女が、他のだれよりも親しくなって
いった。彼女の場合、先に母親のほうが入
信していたのである。父親も賛成しており、
いわば家族ぐるみで信仰を持っているので
あった。彼女としては、心から統一協会が
正しいと信じていたので、親友である私を
導かずにはおれなかったのであろう。
私にとって三年最後の思い出の吹奏楽コ
ンクールがあったが、それを見に来てくれ
たのも彼女。そして力一杯拍手してくれた
のも彼女であった。夏休みに、ただそんな
ヨッチの姿見たさ、顔見たさに雨の中彼女
の家まで自転車をこいでいった私。共に図
書館に通ったり、受験勉強の息抜きに海を
見に行き、小舟の陰でずっと水平線を見つ
めていたヨッチと私。しんしんと雪の降り
しきる夕闇の中を、肩を並べて下校してい
く私達。目を閉じればあの遠い高校3年生
の時のことがすぐに思い浮かぶ。彼女のひ
たむきな友情は、私を理屈なしに統一協会
へと導く大きな要因となっていった。
翌春、ヨッチは明治学院大学に、私は日
本大学に受かり、それぞれ東京へ、静岡の
三島へと新しい出発を踏み出していった。
親元から離れて、私は統一協会へ自由に
通うようになれた。全国大学原理研究会太
田会長の講演会をはじめ、埼玉県での修練
会、東京の秋川での内部修練会、品川の協
会に泊まり込みで原理を学び、講義練習、
駅前での路傍演説、パンフレット配り、夜
の訪問伝道……。私をこうまで駆り立てたの
は、あらゆる批判を乗り越えて立つ統一原
理の素晴らしさであった。私は、理路整然
として疑う余地のないと思われるような論
理に、最終的に圧倒されてしまった。
夏休みにはいると、ヨッチのほうは、原
理研究会の兄弟姉妹とキャラバンカーに乗
り込んで、東北の田舎へ「経済部隊」とし
て派遣されていった。カンカン照りの中、
町々村々をてくてくと歩き回り、物を売っ
て統一協会の資金にするのである。名目は、
「交通遺児のために」「ベトナム難民のた
めに」などの売口上をつくったり、あるい
は、「父はガンで死に、母は半身不随。こ
のままでは授業料も払えません」と土下座
する泣き落とし作戦もあり、また、手相・
人相を占い、「この印鑑を授かれば(買え
ば)、あなたの運は開かれますよ」と言っ
て、幸福を願う人の心を利用するやり方ま
で繰り広げられていく。
活動に邁進するきょうだい達は、何の罪
の意識も感じないのである。私も協会に深
くはいっていくうちに、いつのまにかそう
なってしまった。「国の法を守らなくても、
統一協会は真のキリスト教であるから神様
も許してくださるのです」とアベル(統一
協会用語で上司の人)の言う言葉に従順で
あることが、信仰的と見なされるのであっ
た。
四、家族との衝突
夏休みの後半、琵琶湖のほとりで開かれ
る二十一日間の修練会に参加する直前に郷
里へ帰省した時に、とうとう、それまでひ
た隠しにしてきたことすべてが、家族に知
られてしまった。そして、激しい衝突とな
ってしまった。親戚の人達も友人達も大反
対をし、次々に私を説得に来るのである。
「地上天国の実現なんて、正気で信じてい
るの? 親、友達を心配させておいて世界
を平和にすることなんてできるはずがない。
周りの人を不幸にしてそれが宗教なの?
政治と結びつくのもおかしいわよ。集団結
婚なんてする気? 考えただけでゾッとす
るわ」「宗教はアヘンと同じだ。これは隔
離しなくちゃいかん。精神病院へ入れてし
まえ」「由記ちゃんの目、さかなの死んだ
目じゃないか!」「かわいそうに、やっか
いな病にかかって」
だれに何と言われても、かえって ”この
人達を救うためにも統一協会で活動しなけ
ればならない” と使命に燃えるのである。
「お願いします。修練会にいかせて!」
頼むたびに、父と母は、「どうしてわか
らないのか!」とまゆをつり上げて、私の
ほおをたたき、蹴とばしてくるのである。
悲鳴が近所に聞こえないようにと家中の窓
を締め切ってから、父は平手打ちをしてく
る。母は、「あんたを殺して、私も死ぬ」
と泣きわめく。なぐられた翌日は、あざが
からだ中に残ってしまう。
親は大学も休学にさせ、徹底的に私にわ
からせようとした。父は、「おまえを統一
協会から救うためには、全財産を使ってで
もやっていくぞ。おまえだけでなく、たく
さんの子供達も助けてみせる。いざとなっ
たら文鮮明にも会いにいくぞ」とまで言っ
た。
店の従業員の人達にも恥をさらけ出して、
「娘を悟らせるために当分仕事のほうは身
がはいらなくなるが申し訳ない。みんなに
も協力してほしい」と、お願いしたという。
私の友人宅にも両親はふたりででかけて
行き、「もし、うちの娘が伝道しに来ても
誘われないでください。そして、お金を貸
してほしいと頼みに来ても、一切断わって
ください」と予防線を張ったのであった。
そして大事な原理の書物も、文氏の写真
も、統一協会のきょうだい達からの手紙も
すべて取りあげられてしまった。監禁状態
の中で、窓の外でしきりに鳴くひぐらしの
声が、私に秋の訪れを告げてくれた。幾日、
幾週間が過ぎても状況は少しも変化しなか
った。腰の丸くなった祖母と受験を控えた
中学生の妹の心配そうな目は、声に出さず
とも、「お姉ちゃん、早くわかって!」と
叫んでいた。
行き場のない思いに耐えかねて、家出を
計画して東京の統一協会をめざして夜汽車
に揺られて行ったこともあった。保護して
くれた統一協会の兄弟姉妹達は、私の後を
追ってすぐに飛行機で迎えに来た父と叔父
に、「酒井さんは来ていませんよ。琵琶湖
の修練所のほうに行ったんじゃないですか」
とウソを言って、かくまってくれた。それ
を信じるしかなかった父達は、すぐそばに
私がいるのも知らないで羽田から小松空港
にもどり、そこから車を走らせて滋賀県に
まで行った。何としても子供を間違った宗
教から救い出したい一念であった。このま
まだと大変な結末を迎えることになるとい
う認識が、父はだれよりも強かったのであ
る。
3日ばかりして私は自分から家に帰って
行った。親を理解させたうえでなければよ
くないと反省したからであった。しかし、
事は容易に運ばなかった。戦いの日々が続
いた。絶えず、親、従業員の人達の監視の
中で、店の手伝いをして精一杯働いた。外
に出ることは一切禁じられて、小遣銭も与
えられない。地上を歩けない私は、こっそ
り屋根に上り、頭上に広がった青空に向か
って聖歌を歌い祈ったりしたのであった。
アメリカにいる文先生夫妻に、
「真のお父様、お母様、どうか私の家族が
原理を賛成してくれますように」
と切に祈った。何ヶ月もの間、そこから
見おろす夕焼けが私にとって唯一の友であ
った。
父は、夜遅くまで本を調べ、宗教書を何
十冊もこれまでになく研究していった。そ
して腰を低くして色々な人のところに相談
に行き、アドバイスをいただいたりしてい
た。
「どうしてカンパ活動がいけないのや。神
様のためであれば許されるのや」
と、私がわけのわからないことを言えば、
倒れるくらいにほおをたたいてきた。顔が
はれるくらいに痛かったが、父の手も同じ
痛みを覚えていることはわかっていた。
統一協会にはいったために善悪の判断が
できなくなった私を正常に戻そうという一
貫した姿勢を、父は決して崩さなかった。
厳しいだけの父かと思ったら、私が三島か
ら品川の統一協会までキセル(不正乗車)
をして往復していたことを知った時、父は
頭をたれて、膝の上の置かれた握りこぶし
の上に涙をポタポタと落とすのであった。
それを見て、そんなに父が泣くほど大変な
ことなのかと驚いたものであった。初めて
出会った父の姿から、これは私のしている
ことは統一協会の中で許されても、社会か
らは絶対に許されるものでないことを教え
られた。
いつ再び家出するかわからない私に不安
を抱いて、夜中じゅう、冷たい廊下にゴザ
を敷いて私に悟られないように見張りを続
けていたという母。人知れず肩を震わせて
こぼしていた母の涙は、父と同じく本物の
愛であった。私はしだいに自分の親にはか
なわないと思っていった。いったん信念を
持ったら最後までくつがえさない父の姿勢
に、私は「ガンコもの」とつぶやきながら
も、たちうちできないものを感じざるをえ
なかった。「信用」「信頼」をモットーに
している親に、原理の教えは通じないもの
であることがわかっていった。そして、自
分は原理を受け入れることができたが、こ
の親に納得してもらうことはおろか、黙認
してもらうことも到底できないのだと心の
奥でよくわかっていた。
でも、「ガンコもの」の親に似て私も「
意地っぱり」であった。最後の一線だけは
どうしても譲れなかった。6千年間にわた
る神様の摂理、歴史的同時性を含めて霊の
世界の存在を説く統一協会の教えが、全く
でたらめとは思えなかった。文氏の生い立
ち、六十歳に至るまでの苦難の路程、統一
協会の活躍ぶり、兄弟姉妹達の真摯な姿な
ども否定することは無理であった。
五、一つの選択
父と母は、ワラをもつかむ思いで東京の
ある牧師さんにすがりついていった。その
方は、当時、セブンスデー・アドベンチス
ト教会の四谷教会と墨東集会所を掛け持ち
で牧していらした和賀真也牧師であった。
この牧師さんは、何年も前から統一協会の
ことを知り、キリスト教とは似ても似つか
ぬ偽りで固めた教えーその結果、全国にお
いてあまりに犠牲者が多く生まれているこ
とに心を痛め、身を乗り出していかれた方
であった。
和賀牧師は、統一協会員達の持っている、
そのバイタリティー、献身、勇気、親切な
どを美しい価値あるものと見なし、真珠の
ような青年達の魂を心から愛し、単なる反
対・糾弾ではなく、その核となっている教
えの真偽を問い、会員たちを救出しておら
れるのである。そうした信念の行動の中か
ら、『統一協会ーその行動と論理』と題し
た書物まで書いておられた。
父の取り図らいによって、一九七九年十
一月六日の夕方四時に、津幡町のわが家の
二階において、その方と初めて出会うこと
になったのである。私の心境を深く受けと
めて柔和に話される和賀先生の態度に、い
つの間にか、こわばっていた私の筋肉がス
ーッとほぐされていくのであった。共にい
らしたTさん(男性)も、会ったこともな
い見ず知らずの私のことが他人事とは思え
ない様子で、私に語りかけてくださった。
Tさんは、なんと七年間も統一協会で献身
し、アメリカに在住している文氏のもとで
生活されたこともある方であった。そうい
う方まで統一協会をやめていること、また、
和賀先生の提示される多くの統一協会の隠
された資料も、無視できないものばかりで
あった。
「由記子さん。あなたの人生は、ご自分で
選択なさることです。ただ一つだけ言って
おきたいのは、真実を見るということを避
けるのは、真理を探求する姿勢ではないと
思います。信仰は聞くことから始まります。
どんなにつらくても事実を事実として受け
とめることが大切だと思います」
和賀先生の語る言葉には、落ち着いた響
きがあった。私は迷わず、東京に一緒に行
って確かめてみようと決心をした。この時、
この選択を取らなかったならば、今頃私は、
全く別の人生を歩んでいたことであろう。
東京の原宿にあった、和賀先生のご家庭
にお世話になりながら、約二週間の学びを
深めていくうちに大事なことに気づかされ
ていった。原理の教えと聖書との間に大き
な食い違いがあることを目のあたりに示さ
れ、多くのきょうだい達がそれに気づいて
脱会していった事実。しかも彼らがしっか
りと生き、かつ働いていること。さらに驚
くべき秘密の儀式のことなどを示す生の資
料を見た時、ただ絶句するばかりであった。
大きな衝撃であった。不安定な心理状態の
日々の中で、自分の手で聖書を開き、自分
の目で聖句を追い、自分の頭で一つ一つを
確かめていくうちに、最後には、統一協会
をやめるという堅い決心をついに下したの
である。自分の過ちを認めることの何と苦
しかったこと。しかし、「聖書との本当の
出会い」が、ここにあったのである。
両親の前で心から謝った時、「わかって
くれれば、それでいいんや」と、静かに語
った父の言葉は、今も忘れることができな
い。こんなにも親を苦しめてきた私を許し
てくれたーそれは、親の寛容さであり、大
きな愛であった。
六、エクレシア会誕生
勇気と使命と真実に生まれ変わった思い
で、今度は、私は、友の救出のために全身
全霊を傾けるようになっていった。そんな
歩みの中でも特に、脱会する時に新たに知
った統一協会の素顔は、今でも克明に私の
記憶に刻みつけられていて、決して消えな
い。
統一協会の人達は、泣いてすがりつく私
とヨッチを、否応なしに引き離したのであ
った。このヨッチとの別離は、私にとって、
自分のからだの一部をもぎとられたような
深い傷となってずっと心に残っている。
私は、自分の体験が単に個人的な体験と
して終わってはいけないと思えてならなか
った。ましてや、今も原理を正しいと純粋
に信じて、汗を流し、寒さにこごえながら、
嘲笑、罵声の中で黙々と歩んで活動してい
る友のことを思うと、胸がしめつけられそ
うになる。どうして放っておけようか。父
と母が最後まであきらめずに私を愛しぬい
たように、私も友に対して真実でありたい。
私は、ただひたすらペンを執り続けた。
自らもキリスト者となり、東京で和賀先生
のお手伝いをし、『統一協会ーその行動と
論理』に続く二冊目の本を生み出すため、
共に不自由な環境の中で、辛抱強く自分の
これまでの体験を書き続けていった。
冷たいからっ風に吹かれながら、代々木
公園のベンチで書き、揺れる電車の中でも
時間を惜しんでペンを走らせた。「書く」
ということは、孤独で、しかも忍耐を要す
る作業であった。手が冷たくなると、共に
静かにただペンを走らせていた和賀先生と、
フリスビーを飛ばしたり、先生の幼いお子
さん達と走ったりするのがストーブ替わり
であった。からだが暖まるとまたペンを握
りしめる。ヨッチとの別れ、統一協会との
訣別で、公園にポツンと葉をすっかり落と
して立っている木のような私にとって、東
京の雪のない冬は、北陸の美しい冬よりも
寒々と感じられた。
「くたびれたね」
「そうですね」
夕陽の傾いた頃、自転車に原稿用紙を積
んで帰る時、そうひとこと言うだけでわか
り合えるものがあった。無邪気な子供達と
手を引く和賀先生の姿は、私の心を少しず
つなごませていった。春は手を伸ばせば、
すぐそこにあった。
そして、一年後の一九八一年一月十五日
に、私達の長い苦労の末、『統一協会と文
鮮明ー 青年達の心理を探る』(新教出版
社発行)という本になって出版された。ペ
ンの足跡は、人生の足跡となるのである。
十八歳から十九歳にかけての人生を濃縮し
たような生き方は、私の生涯のひとくぎり
になっていった。
その後、統一協会脱会者数名の提案によ
って『エクレシア会』という会を結成して
いった。この会は、現実あった実際的な経
験を基に、聖書の真理に目覚め、真のキリ
ストを信じた者として、誤りの中にある人
々を救出し、聖書に堅く立った信仰を伝え
ることを目的としている。
私達は、文鮮明氏ではなく、自分達を迎
えてくれた真の救い主、イエス・キリスト
を元の仲間達に伝えたいと思い、会報の発
行、定例会の集い、学びと慰めの場を一つ
ずつつくっていった。そして、もう三年も
流れた。現在、定例会は、三十六回目を開
き、数名であった会員は、七百名に達して
いる。『エクレシア会を支える会』も発足
し、この世話人会の中には私の尊敬する作
家、あの三浦綾子さんまでも名を連ねて、
励ましのお言葉を送ってくださっている。
連日、エクレシア会には全国各地から相
談依頼の電話、訪問が相次ぎ、本の反響が
大きくなる一方である。多くの依頼の中で
本人との出会いが可能となりそうな場合、
その時を好機として生かすよう全力で対応
していく。各地を飛行機で飛び、新幹線で
走り、巡りに巡った。その結果展開された
ひとりひとりの劇的な改心に導かれていく
様は、貴重なドラマであり、奇蹟であると
いってもよい。
なかでも、かつて私のいた品川の協会で
歩んでいた兄弟が、イエス・キリストを信
ずるひとりとして救出されていった出来事
は、感動もひとしおであった。この活動に
携わった私達は、この世に生きて働いてお
られる神様を痛切に実感させられていった。
この歩みの中で出会っていった人は数限
りない。救出された人が、次々とまた他の
人を救っていく。これらのことが、私の心
の中で、あの高校時代の音楽よりも美しく
高らかに鳴り響いている。
統一協会をやめる人も多いけれども、い
まだにはいる人も決して少なくない。それ
は、現代の世相を反映している結果だと思
えてならない。この北陸の地においても、
統一協会の青年達が、一途に活動を続けて
いる。この問題はまだ終わっていないので
ある。
親友ヨッチとは数年間ずっと会えない状
態が続いたが、今年の三月に、突然彼女か
ら電話があった。私は弾むような喜びとな
つかしさで胸をいっぱいにして彼女と会っ
た。だが実は、彼女は統一協会の上司の人
を連れて来て、私を再び統一協会へ戻そう
としたのであった。
私は、ヨッチとふたりだけで、高校時代
のように何でも自由に思う存分語り合いた
かった。その思いは、今も決して変わらな
い。ヨッチと別れた後、私は残念な思いに
耐えきれず、涙もふかずに泣きながら、家
へ帰った。友情の壊されるのは何と悲しい
ことだろうか。何とやりきれないことだろ
うか。
しかし、いつかヨッチが私の隣にすわり、
天へ続く階段のようなメロディを、一緒に
奏でる日が必ず訪れることを信じている。
真実のもののみがこの世に残るのである。
人の魂を変えるのは、本物の愛のみである。
小社発行『北陸の燈』創刊号より
2025.6.22 林浩治さん
「愚銀のブログ」更新しました。久しぶりです。
キム・ユギョン著『青い落ち葉』
(松田由紀・芳賀恵訳、北海道新聞社、2025)
の書評を書きました。
脱北作家の短編集ということですが、
そういった政治性抜きに面白い小説です。
参考
「アジアと芸術 digital」noteから
政治関連有名人ネット人気度番付小社発表
横綱 深田萌絵 立花孝志
大関 飯山陽 有本香
関脇 警察官ゆり さとうさおり
小結 さゆふらっと さや
前頭 ひろゆき ホリエモン
前頭 ほんこん パックン
前頭 見城徹 ケント・ギルバート
前頭 ロンブー淳 デーブ・スペクター
前頭 デヴィ夫人 ラーム・エマニュエル
前頭 今井絵理子 英利アルフィヤ
前頭 石井苗子 山谷えり子
前頭 筒井義信 山尾志桜里
前頭 櫻井よしこ 山根真
前頭 桜井誠 増山誠
前頭 川田龍平 片山安孝
前頭 上川陽子 片山さつき
前頭 笹川堯 鳩山由紀夫
前頭 細川護熙 村山富市
前頭 吉川里奈 青山繁晴
前頭 松川るい 山東昭子
前頭 立川志らく 山口那津男
十両 江川紹子 山口敬之
十両 丸川珠代 河井案里
十両 玉川徹 河添恵子
十両 及川幸久 河野太郎
十両 長谷川幸洋 河村たかし
十両 中川郁子 梅村みずほ
十両 井川意高 杉田水脈
十両 高市早苗 水島総
十両 高須克弥 内海聡
十両 高橋はるみ 浜田聡
十両 リハック高橋 藤井聡
十両 高橋洋一 藤岡信勝
十両 高見千咲 林千勝
幕下 高木毅 広瀬めぐみ
幕下 高木かおり 麻生太郎
幕下 高岡達之 田崎史郎
幕下 小池百合子 小泉進次郎
幕下 小泉悠 中村逸郎
幕下 古市憲寿 古舘伊知郎
幕下 須藤元気 玉木雄一郎
幕下 齋藤元彦 齊藤健一郎
幕下 野田佳彦 茂木健一郎
幕下 島田紳助 須田慎一郎
幕下 花田紀凱 田原総一朗
幕下 竹田恒泰 篠原常一郎
幕下 我那覇真子 玄葉光一郎
幕下 生稲晃子 萩生田光一
幕下 池上彰 手嶋龍一
幕下 岩上安身 石丸伸二
幕下 神保哲生 宮台真司
幕下 神谷宗幣 韓鶴子
幕下 田母神俊雄 鶴保庸介
幕下 新田八朗 野田聖子
幕下 三橋貴明 橋本聖子
幕下 三浦瑠麗 橋下徹
幕下 三原じゅん子 シャドウ岩橋
幕下 武見敬三 自見英子
幕下 不破哲三 古賀誠
幕下 二階伸康 前原誠司
幕下 木原誠二 千原せいじ
幕下 松原耕二 百田尚樹
幕下 松井一郎 村上春樹
幕下 山本一太 岡田直樹
幕下 舛添要一 猪瀬直樹
幕下 徳永信一 初鹿野弘樹
幕下 福永活也 八代英輝
幕下 橋口かずや 苫米地英人
幕下 岡田克也 鈴木大地
幕下 榛葉賀津也 鈴木直道
幕下 前田万葉 鈴木貴子
幕下 枝野幸男 内田樹
幕下 日枝久 佐藤正久
幕下 執行草舟 石平
幕下 木村草太 石原伸晃
幕下 馬場伸幸 石丸幸人
幕下 馬淵澄夫 丸山穂高
幕下 音喜多駿 嘉田由紀子
幕下 宮崎駿 有田芳生
幕下 北村晴男 有村治子
幕下 平野雨竜 平沢勝栄
幕下 小野田紀美 大谷光淳
幕下 大野元裕 大谷昭宏
幕下 太田房江 山田宏
幕下 大村秀章 中田宏
幕下 津田大介 中司宏
幕下 中谷元 中曽根弘文
幕下 中条きよし 吉村洋文
幕下 世良公則 世耕弘成
幕下 岸口実 岸博幸
幕下 森健人 馳浩
幕下 森下千里 森屋宏
幕下 森喜朗 森山裕
幕下 森康子 森内浩幸
三段目 森まさこ 宮沢孝幸
三段目 上昌広 尾身茂
三段目 上念司 養老孟司
三段目 下地幹郎 西田昌司
三段目 下村博文 西村康稔
三段目 杉村太蔵 斉木武志
三段目 藤村晃子 茂木敏充
三段目 畝本直美 吉野敏明
三段目 松野明美 芳野友子
三段目 安積明子 松田学
三段目 安住淳 牛田茉友
以下省略(敬称略)