409. 歌人・芦田高子を偲ぶ
【2025年7月7日配信】
短歌でめぐる兼六園
~六勝を中心に~
金沢市 若林 忠司
多くの観光客が訪れる兼六園。金沢めぐ
りのガイドブックには必ず兼六園が紹介さ
れている。しかし “兼六園”の「六」につい
て地元の人でも知っている人は少ないので
は………。
兼六園は一九七六年(昭和五十一年)、
保護・保存を目的に有料となる。風致に優
れ、学術的価値が特に高いとして、一九八
五年に「特別名勝」に指定される。
「特別名勝」としての指定を受けられた
のは、関係者の努力のほかに、兼六園の教
科書といわれる『兼六園全史』 (兼六園観
光協会、一九七六年)の果たした役割も大
きいという。
ここでは、その他 『兼六園』(北國新聞
社、二一一三年)、『兼六園物語』(新人物
往来社、一九七四年)の文献も参考にして
綴った。
私と兼六園の縁は、今は遠い中学生時代
にさかのぼる。中学校は兼六園のすぐ近く
にある小将町中学校であった。通学路であ
った白鳥路を通り、兼六園を見ながら通っ
た。当時は無料であったので学校の帰りに
何度か入園したことがあった。中学生の私
には兼六園の価値など分からなく、遊び場
にしていた。兼六園が歴史ある立派な庭園
であることを知ったのは大人になってから
である。
少子化、小学校の統合、通学区域の変更
などで、小将町中学校は、数年後には移転
するという。通学路も変わり、兼六園が遠
くなる。通学路のすぐ近くにあった兼六園
は遠い昔の思い出となる。
現在、兼六園はわが家から歩いて六、七
分ほどのところにあり、早朝は無料である。
散歩コースには最適の場所で、かつて兼六
園研究会の会員でもあったので、兼六園を
より深く知る目的で、みぞれの降る十一月
ごろまではほとんど毎日一時間ほど散歩し
ている。二十年ほど続く。園内マップはパ
ンフレットを見なくてもほぼ描くことがで
きるようになった。
芦田高子(あしだたかこ)に懐いを馳せ
ながら、彼女の著『歌集兼六園』(新歌人
社、一九六九年)に収められている短歌を
紹介し、「兼六園」の名称に使われている
「六」の優れた景観である「六勝」をめぐ
ってみたい。
短歌といっても五・七・五・七・七の三
十一文字(みそひともじ)ということを習
った覚えはあるが、知識はゼロに近い。短
歌のいろはを学ぶために、歌人の短歌を詠
むことから始めることとなった。
宏大と幽邃、人力、蒼古
みな水と山との六勝長き
六勝(ろくしょう)の意味については、
ガイドブックや辞書の記述を参考に記すと、
「宏大」(こうだい)は広々とした景観。
「幽邃」(ゆうすい)は物静かで奥深いこ
と。「人力」(じんりょく)は人の手が加
わること。「蒼古」(そうこ)は古びた趣
が感じられること。「水泉」(すいせん)
は滝や泉、池などの水。「眺望」(ちょう
ぼう)は眺め、とある。
命名は松平定信が付けたものであるが、
実際に金沢に来て、庭を見たわけではなく、
江戸で十二代藩主前田斉広(なりなが)の
話を聴いたりして付けたものという。
一.「宏大」
兼六園の一番の魅力は霞ヶ池である。宏
大な池に佇むことじ灯籠。足が二股になっ
ている。琴の糸を支える琴柱(ことじ)の
姿に似ているところから、その名が付いた
とされる。
長い脚は水中に、短い脚は護岸の石にか
けられている。入園の際にいただいたパン
フレットの表紙は「紅葉に彩られる徽軫灯
籠」。 片脚での立ち姿は何ともなまめかし
く、多くの観光客の記念撮影のスポットと
なっている。
霞ヶ池に注ぐ曲水のせせらぎの水音、灯
籠の傍らのモミジの古木は新緑の緑や紅葉
の赤を添えて、一枚の美しい風景画を映し
出す。参考までにガイドブックなどの表紙
にことじ灯籠の写真が載せられているもの
を調べてみた。
『金沢』(岩波写真文庫93、岩波書店、
一九五三年)、『名勝兼六園』 (北国出版社
一九六五年)、『兼六園・成巽閣』 (田畑み
なお著、集英社、一九八九年)、『兼六園
旅物語』(下郷稔著、ほおずき書籍、一九
九九年)、『兼六園』(北國新聞社、二一
一三年)がある。赤戸室石の紅橋に立ち、
ことじ灯籠を背景に記念撮影をする観光客
が多い。兼六園を代表する人気スポットと
なっていることの証しである。
観光客だけでなく、地元の人の中にも、
灯籠の片脚がなぜ短くなったのか、と疑問
に思う人もいるだろう。以前、いたずらに
よって壊れたからということを聞いたこと
があったが、その真偽のほどは分からなか
った。この疑問を解いてくれたのが、元金
沢城・兼六園管理事務所長の加藤力著『兼
六園のシンボル「ことじ灯籠」の片脚はな
ぜ短くなったのか?』(北國新聞社出版局、
二〇二〇年)である。「現在のものは二代
目」で一九七八年 (昭和五十三年)のことと
いう。灯籠は数回にわたるいたずらによる
倒壊被害に遭ったと記されていた。
初代の灯籠が一九七七年十二月十四日に
倒壊被害にあったことを、翌十五日の北國
新聞が写真を載せ報じていた。観光客は消
えた灯籠の現場を見たとき「ことじ灯籠は
どこにあるの?」との思いを抱いたことだ
ろう。
翌年七月二十日の同紙夕刊に「二十日午
後から取り付け作業が始まり、二十一日か
ら代用品が登場する。修復に一年かかる」
と伝えられていた。灯籠の歴史をひもとく
と、そこには悲しい出来事があったことを
知る。
初代の灯籠は『兼六園全史』によると、
粟ヶ崎の豪商木谷藤十郎が藩主に献上した
ものと伝えられるが、実際は嶋崎家からの
献納であるという。
偶然見つけたことじ灯籠の一枚の写真が
目を引いた。『金沢』(岩波写真文庫、一
九五三年)に、小学生と思われるふたりの
男児が、灯籠横の池の中の四角形の石に乗
っている。ひとりは右手を灯籠の長い脚の
上部にかけている。ふたりが石の上からタ
モで捕まえた魚?を眺めている。もうひと
りの子どもは何を見ているのだろうか?
真っ直ぐ正面を見つめている。
前にも記したように、一九七八年に二代
目が再現されているから、子どもたちが遊
んでいた灯籠は初代のものである。この写
真集が出版されたのは一九五三年であるか
ら、当時の入園は無料で、庭園は子どもた
ちの遊び場だったといえる。一九七六年(
昭和五十一年)から有料になった今、こん
な光景は想像もできない。
鯉の背が濁れる池にわずか浮く
徽軫灯籠の影あるあたり
芦田高子は鯉の泳ぐ光景を詠んでいた。
話は少し飛ぶが、池には錦鯉はふさわしく
ないということを聞いたことがあった。
二、「幽邃」
『広辞苑』で「幽邃」を引くと、「景色
などが物静かで奥深いこと」と説明されて
いる。私が「幽邃」を強く感じる場所は、
噴水からせせらぎ沿いに進み、黄門橋に立
ち前方を眺めた光景である。黄門橋は、手
取峡谷の上流に架かる橋を模してつくられ
た石橋である。
青戸室の一枚石のそりまろく
黄門橋の蒼古幽邃
橋詰に見える獅子巌(ししいわ)や周辺
の生い茂る木々などの造園に惹かれる。そ
の他「幽邃」を感じさせるスポットとして
は鬱蒼とした樹林に覆われた瓢池(ひさご
いけ)、翠滝(みどりたき)周辺ではない
だろうか。
三、「人力」
噴水前にある切石(きりいし)に立ち鑑
賞する。水音が強く響いてくる。
サイフォンの理をいまに見せて百余年
噴きて休まぬ噴水の音
吹き上がる三本の水が、噴き出し口の八
角形の石と池の水面を強く打ち続けている。
優雅にして荘厳な噴水と映る。早朝散歩で
目にする兼六園の噴水である。
拙著『金沢を知る20章』(石川サニーメ
イト、二一一〇年)に、「心に残った噴水」
と題して、早朝散歩で訪れたときのことが
記されているので、当時を思い出しながら、
あらためて綴ってみる。
「この噴水は、霞ヶ池を水源としており
水面との落差で、高さ三・五メートルにま
で吹き上がっている。日本庭園では、大変
珍しく、十九世紀中頃につくられた日本最
古のものといわれる」と説明板が由来を伝
えていた。動力を使わずに吹き上がってい
ることに、昔の人の優れた技術と、日本一
古いという歴史の謎をも秘めた噴水である。
卯辰山から昇った太陽が、木々を透かし
て噴水を照らす。木々の緑、ツツジのピン
クや薄紫を背景に、中程に虹がかかる。
噴水のしぶきの中の虹冴えて
手には取れざる宝のいろす
一瞬、足を止めた。ほんの数分であるが、
噴水が最も美しい瞬間で、はっと息をのむ
絶景である。
日本一の園の噴水しぶきつつ
虹を伴ない昼をやさしき
「人力」が生み出したものである。入園
者が噴水を背景にシャターを切る人が多い。
『兼六園全史』(兼六園観光協会、一九七
六年)、『兼六園歳時記』(下郷稔著、能
登印刷出版部、一九九三年)、『兼六園』
(北國新聞社、二一一三年)、『金沢なに
コレ100話』(北國新聞社、二一一三年)
の説明を借りると、文久元年(一八六一年)
に、十三代藩主前田斉泰(なりやす)が、
二の丸に噴水を造りたくて試作したものが
今の兼六園にある噴水と伝わる。
日本庭園にこれまで設置されたことのな
い、新しい庭園意匠とされる。市内に見る
噴水といえば、私には兼六園の噴水が真っ
先に思い浮かんでくるのである。
「徽軫(ことじ)灯籠」の表記に
際して、「ことじ灯籠」を用いた。
(筆者)
四、「蒼古」
『広辞苑』には、「古色を帯びて、さび
た趣きのあること」と説明されている。「
蒼古」という言葉は、「幽邃」の言葉と同
じように抽象的で、難しい言葉である。具
体的にどのような景観を指すのか分からな
いところがあるが、「幽邃」のところで記
した黄門橋周辺の景観と重なる。
光景、雰囲気が感じられるスポットとし
て、黄門橋周辺以外に挙げるとすれば、小
立野口の山崎山山麓の岩間から清水が湧き
出る光景である。周辺の静寂な景観、特に
木橋からの眺めは風雅な雰囲気を漂わせる。
秋の紅葉に彩られた周辺の景色が訪れる人
を惹きつける。
五、「水泉」
園内を流れる曲水。「水泉」を代表する
スポットである。
犀川より延々と来て美しき
水が育つるカキツバタの紫(むら)
兼六園の南東、犀川の上流一〇・五キロ
の上辰巳町で、犀川の水を取り入れている。
この辰巳用水によって小立野に引かれ、山
崎山の麓から曲水となって園内を緩やかに
流れる。水流は千歳台をめぐって霞ヶ池に
入る。全長五七四メートル、幅四~六メー
トルである。
かきつばた早く咲けよと曲水の
水は生きて打つ鼓動のごとき
新緑の季節になると、曲水ではカキツバ
タの可憐な紫の花が咲き、訪れる人を癒し
てくれる。
花見橋から下流の曲水にカキツバタが咲
き競う。梅林が通路の向かいに見える。舟
底板を用いた板橋から見るカキツバタも、
見事な景観を呈する。
花が開くときに、「ポン」という音がし、
その音を聴くと願い事がかなうという言い
伝えがある。いつごろからこの言い伝えが
広まったのだろうか………… 私自身も早朝散
歩で花の咲く瞬間に耳を澄ましたが、音を
聴くことはできなかった。
岡良一氏も金沢市長時代、「友人と水辺
にしゃがんで、耳をすませたものだ。でも
今日まで、ついぞその音を聞いたことがな
い。」(『兼六園物語』)と述べている。
音をマイクで録音する科学的な方法はある
が、無味乾燥な検証といえる。音がすると
いう言い伝えが残っていることにこそ、優
雅で美しい風景が感じられる。
『五木寛之の新金沢小景』(テレビ金沢、
二〇〇五年)にも、「カキツバタの咲く音」
として取りあげられていた。「音が聴こえ
るのか聴こえないかの真偽はともかくとし
て、そんな行いに妙に納得させられるとこ
ろに、金沢の風流がある。」、と結ばれて
いる。
拙著『いらっし よるまっし』(リッチプ
ロセス、二〇〇五年)に「カキツバタを愛
でる」という題で、次のように書き残して
いた。
「今年もカキツバタが咲く時季がめぐって
きた。兼六園のカキツバタを鑑賞して十五
年余りになる。五月下旬から六月初旬にか
けて、カキツバタが盛りとなり、訪れる人
の目を楽しませてくれる。……………
花が咲く瞬間が見たくて、今にも咲きそ
うな膨らんだ蕾を正面からじっと見据えて
いた。
わずか一、二秒の瞬間であった。優雅な
姿は神秘的ですらある。待ちに待った瞬間
に出会ったときは感動的であった。咲いた
ばかりの花びらは瑞々しい濃紫(こむらさ
き)の色彩が際立っている。」
カキツバタ開くを聞けばしあわせの
ありと曲水に早朝(あさ)よりの人
かきつばた開く瞬時の音きけば
倖せなりや朝の水辺
数人の人たちが、咲く瞬間を見るため、
人の足音のしないところで耳を澄まして開
音を聴こうと、じっと待っている。可憐な
紫の花が訪れる人を楽しませ癒してくれる。
カキツバタといえば「いずれ菖蒲か杜若」
ということわざが思い浮かんでくる。菖蒲
(あやめ)と杜若(かきつばた)は、同類
のよく似た美しい花。そのために美の優劣
をつけがたく選択に迷うたとえとして使わ
れる。
かつて兼六園研究会の研修会で、「杜若
は水の中で咲く」「菖蒲は湿った土の中で
咲く」と違いを教わったが、私はいまだに
区別がつかない。
六、「眺望」
「眺望」といえば「遠くまで見渡すこと。
見晴らし」の意味で、標高五十メートル余
りの高台にある眺望台が思い浮かんでくる
人も多いだろう。観光客がガイドの説明を
聞いている光景によく出会うスポットであ
る。眺望が、雄大な庭園といえる。
兼六園研究会の会員として、兼六園をも
っと詳しく知ることと健康維持のために、
早朝散歩をするようになったのだが、その
ときの記録を研究発表文集『きくざくら』
第十号(同研究会、二〇〇一年)に、「眺
望台にて」と題して次のように書いた。
ある朝のことである。県外の観光客
と出会った。「早朝散歩を楽しむため
無料開放してくれるなんて、ほかでは
考えられないこと。何と粋なはからい
ね。さすがは前田のお殿さま!」と話
してくれた。兼六園の魅力のひとつで
ある。
当時の思い出がよみがえってくる。
眺望台で新鮮な空気を胸いっぱい吸い込
む。軽く身体を動かし体操。日の出を待つ。
毎朝訪れても、日の出を拝める日は少ない。
太陽の表情もさまざまである。真っ青の
空を背景にして、強烈な日差しを放つ真夏
の太陽。雲間から淡い光を放ちながら、見
え隠れする太陽など、刻一刻とその表情を
変える。毎朝違った表情に、自然の神秘と
畏敬の念を抱く。この瞬間に出会えること
が、私を散歩に誘うのだろう。
見はるかす七つのピーク秋晴れて
医王は戸室を背後より抱く
眺望台から見える風景は、兼六園の借景。
前方に卯辰山、右に医王山、戸室山が望ま
れる。眼下には家並みが広がり、北に目を
転じると内灘砂丘と金沢医科大学が目に映
る。延長線上には、能登半島が遠くに横た
わっている。卯辰山の左端の遥か遠くに、
宝達山が見える。実に広い眺望である。
見慣れた風景の中で、借景が替わったの
はいつの朝だったのか今ははっきりと憶い
出せない。眺望台の正面に見えていた金沢
サニーランド(一九九三年閉業)が、すっ
かり姿を消していた。かつて金沢ヘルスセ
ンターとして一九五八年(昭和三十三年)
に開園して、一九八二年(昭和五十七年)
に金沢サニーランドと改称。解体中の建物
の一部は見たことはあるのだが、稜線の風
景が変わっていった。
眼下に見える街並みもずいぶん変わった。
ビルが建ち、風景の一部も変わる。特に目
を引いたのは浅野川近辺である。かつての
瓦屋根が光る家並みが続いていたが、高層
ビルに取って代わられ、歳月の流れを感じ
る。
時を経て、借景もまた変わっていく。眺
望台からのパノラマ風景は、今後どのよう
な色彩を帯びていくのだろう……………。
記憶もおぼろげになったが、『きくざく
ら』をたどると、第十四号(二〇〇五年)
にも眺望台から見た光景について「心に残
った、美しき朝」と題して、次のように書
いていた。
二〇〇四年(平成十六年)、八月二
十六日五時十分。卯辰山と医王山山系
の山々が雲で覆われている。朝焼けで
稜線は橙(だいだい)色。ところどこ
ろ灰色を帯び、淡い青色の空と色彩も
豊かである。日本海に目を転じると、
空は灰色の濃い雲ですっぽり包まれて
いた。山々と海の対照的な空模様が瞼
に浮かぶ。
五時三十分、日の出。曲水に六、七
センチぐらいの子亀が泳いでいるのを
発見。濃い緑色の甲羅が印象的である。
親亀を含めて全部で五匹の姿を見る。
四季によってさまざまな色彩を見せる
花や木々の景色を鑑賞しながらの散歩
である。
八月二十八日。まだ薄暗い四時三十
分ごろ。卯辰山の稜線に沿って一メー
トルぐらい上空に、雲が帯状に幾重に
も横たわっていた。淡い橙色に染めら
れた空は、山水画を見ているような光
景を描いていた。
五時三十四分、太陽が昇ってきた。
赤橙色の円い輪郭をくっきりと現して
いた。ふと祝い時に用いられる天地自
然の姿を映した「日月山海里」を象徴
する五色生菓子(ごしきなまがし)を
思い浮かべた。今朝の太陽は白い餡餅
(あんもち)の表面を赤の染粉でまぶ
し、太陽を表した円形の大福と重なっ
た。神々しいまでに美しく、この夏の
最高の日の出であった。
九月二十三日。五時五十一分ごろ、
卯辰山に建っている仏舎利塔の上に太
陽が姿を現した。こんもりと繁る森の
上に昇り、仏舎利塔と山裾まで広がる
鈴見団地を照らし始める。今日は秋の
彼岸。「暑さ寒さも彼岸まで」といわ
れるが、この夏の猛暑と残暑の厳しさ
に一段落を告げるかのように、今朝は
爽やかな風が肌に伝わってきた。
春分・秋分の日には、太陽は真東か
ら昇り真西に沈むという。仏舎利塔の
上が真東であることが分かった。反対
側の真西は、月見橋の延長線上に見え
る三重宝塔がある栄螺山(さざえやま)
ではないだろうかと推測した。彼岸の
中日には、太陽は浄土の方へ沈むとい
われるが、陽は栄螺山の上を通り、日
本海を赤く染めながら、遥か彼方に沈
んでいくだろう…………。
二〇〇五年(平成十七年)六月二十一日
は、忘れられない思い出として当時の様子
を拙著『当たり前?』(石川サニーメイト、
二一一八年)に次のように記していた。
夏至のこの日、梅雨特有の不快な暑
さは感じられない。天気予報では、今
朝の金沢の日の出は四時三十五分、日
の入りは十九時十五分となっている。
「空梅雨の夏至」というタイトルで
日の出の光景を撮影するために、NHK
金沢放送局の Sさんが訪れていた。偶
然、私に日の出の時間と場所を訊ねる。
毎朝の散歩のことや一年間の太陽の動
きなど、これまで見た日の出について、
私へのインタビューとなった。
四時五十七分になった。青白い明か
りを放つ電球とテレビのアンテナ塔の
中間から昇ってくるのだが、五十五分
を過ぎても雲間は淡い橙色に染まって
こない。太陽が顔を出す空模様ではな
いように思えた。
五時十分、雲間に光が差し、橙色の
太陽が半分顔を出す。十一分に雲の中
に姿を消したが、十四分には卯辰山の
稜線から五メートルぐらい上空に再び
姿を現した。
今朝の取材は午後六時十分から七時
の間に放映されるとのことであった。
翌日、「テレビで見たよ…………」と、
散歩仲間が話しかけてくれた。
夏至の日、北國新聞は「石川県は晴
れ。午後一時までの最高気温は、金沢
三十二・二度と今年一番の暑さを記録
する。夏至を過ぎても梅雨入りしない
のは、一九八八年以来十七年ぶり……」
などと伝えていた。
この原稿の最後になりましたが、私自身
これまで「六勝」に光をあてて兼六園をめ
ぐったことはありませんでした。
すさまじい人生を歩んだ芦田高子を心に
置いたことで、そして、造園に携わった名
もない職人たちの緻密で高度な技や智慧、
心意気を発見できたことで、楽しく大いに
学ぶことができました。
視点を替えて、兼六園をめぐる新しいコ
ースも発見できました。
私のこの拙文が兼六園めぐりに少しでも
お役に立てれば嬉しく思います。
〈参考〉
当講座記事NO.172~174再掲
芦田高子 - Wiki
〈後記〉
当記事中の写真はすべて、金沢市の
作田幸以智さん撮影のものです。
写真の中または右を左クリックする
と写真を拡大できます。
当講座NO.184とNO.218の記事にも
作田さん撮影の写真を掲載しました。