335. 私のふるさと歴史考(3)
【2024年3月27日配信】
越中の歌聖人麻呂信仰
郷土史家 廣田 克昭
はじめに
『北陸の燈』第2号で紹介した、五百羅漢
で親しめる長慶寺(富山市桜谷)には、柿
本人麻呂の木像が秘蔵されている。また、
境内の一角に立つ「志都丸」(しとまる)
と刻んだ塚は、ヒトマロ(人麻呂)→ヒト
マル(人丸)
をさらにもじったものと思われる。
長慶寺所蔵の人麻呂像
柿本人麻呂は『万葉集』に登場する持統
期(七世紀後半)の代表的歌人である。和
銅年間にかけて二十年以上も歌を詠み続け
た人麻呂は、奈良時代にすでに「歌聖」と
して崇拝されるほどであった。だが、その
生涯については謎の部分が多い。人麻呂の
出た柿本臣氏の系譜をさぐってゆくと、和
珥、春日、小野、粟田、大宅などの臣族と
同族で、大和国・東北部(添上郡櫟本附近)
を本拠としたらしいが、それ以外に当時の
正史には何も現われてこないのである。
彼の経歴について様々な説がある中で、
先年、梅原猛氏が『水底の歌』で大胆な仮
説と推理によって人麻呂論を展開されたこ
とは、まだ記憶に新しい。梅原氏は長く定
説化されていた斎藤茂吉説を批判し、石見
国・高津の沖合いにあったと伝えられる水
没伝承の島・鴨山を人麻呂の死亡地とみて、
人麻呂流人水刑死説をうち出した。そして、
その後このことを科学的に実証しようと、
島根県益田市で梅原氏を団長とする海底調
査(水中考古学)が試みられ、大いに話題
をはくした。
越中の地は、この議論と直接かかわりは
ないが、長慶寺に伝わる人麻呂像や志留丸
塚の存在は、歌聖人麻呂に対する信仰が当
地におよんでいた形跡として興味深いもの
がある。
人麻呂が和歌の神として神格化された歴
史は古い。大伴家持らの万葉歌人たちの間
で「山柿の門」と称され、作歌の模範的存
在であった彼は、また『古今和歌集』仮名
序に「かきのもとの人まろなむ、歌のひじ
りなりける」と説かれ、平安時代より、歌
人の間では「人丸影供」(ひとまるえいく)
が流行した。これは、人麻呂の影像を安置
し、香花を供え和歌を献じて供養したもの
である。長慶寺にある像はこのような風習
の名残と考えられる。
長慶寺人丸社の創建
長慶寺附近の谷あいの「桜谷」の地は、
昔から桜の名所で、立山連峰を遠景に神通
川の清流を近くにのぞむ風光絶佳の地とし
て知られていた。
「四時貴賤群集して、勝景におほれて文を
作り、詩を吟し……、歌をよみ、終日の遊
興、日の暮るるを知らず」
と伝えられ、寛政十年(一七九八年)春、
ここに遊んだ富山藩八代藩主前田利謙(と
しのり)の生母自仙院佳子(じせんいんよ
しこ)は、桜谷八景の歌(二四首一巻)を
詠み残している。
そして、このときに附された藩儒佐伯有
融の序文から、詩家の発起によって寛政丙
辰(八年)夏、当地に柿公の像をまつる祠
が建立されたことがわかる。自仙院は、こ
の「柿公の祠」すなわち人麻呂神社(人丸
社)に歌を奉納したのである。長慶寺と人
麻呂信仰との結びつきについて、また『越
中婦負志』(えっちゅうねいし)には次の
ように記されている。
「人麿神、現時長慶寺に安置す。一時歌人
の尊崇せしこと左の記録によりて知らる。
抑、石見国高角山におはします人麿大明
神の神殿の土を、この桜谷に移し奉り、寛
政八年丙辰六月十一日に、一社をいとなむ
……」
これで寛政八年(一七九六年)、石見国
の人麿大明神の分社として、長慶寺境内に
人丸社が創建されたことがほぼ明らかであ
る。それは、長慶寺が桜谷の地へ移って十
年目で、五百羅漢の建立が始まる直前にあ
たる。
富山城下郊外の景勝地で、四季をつうじ
て藩の風流人が集まり、歌会の開催など当
時のサロン的役割を果たしていた桜谷一帯
の整備の一環として、人丸社建立があった、
と考えてよいだろう。その後、明治の初め
に人丸社は破壊されて、本尊の人麻呂像と
塚だけがあとに残ったというわけである。
内山家と人麻呂信仰
しかし、越中と人麻呂信仰の結びつきは、
これよりもう少しさかのぼるようである。
桜谷の北方、富山市宮尾に藩政時代の十村
(とむら)内山家がある。盛時(宝永の頃)
には神通川の廃川地を開き千七百石にも達
したという大地主で、歴代主人の中には文
雅の士が多い。とくに十五代治右衛門は逸
峰(いっぽう、安永九年没)と号し歌道に
秀でていた。
逸峰は京都の武者小路家へ出入りして作
歌を習い、また西国を旅しながら多くの文
人墨客と交わったという。そして、彼の書
き残した紀行文には、明和二年(一七六五
年)、四国、山陽、山陰を旅したおり、石
見国では人麿明神(柿本明神)に参籠して
一昼夜に和歌百首を作って奉納したこと、
帰途に明石の人丸神社へも詣でたことが記
されている。次の史料は、このとき石見の
柿本大明神の別当真福寺から賜った「参籠
詠進一日百首」を証する文書(内山家所蔵)
である。
今般於
当社一日百首題詠之
和歌首尾能被相詠献上之所
目出度遂奉納候并尚御願
咸就之趣宜致御祈念候也
勅願所
石見国
正一位柿本大明神別当
真福寺
良栄 印
明和二年
八月廿九日
越中国宮尾
内山治右衛門大伴逸峰雅丈
「大伴逸峰」と名のっているのは、越中
ゆかりの万葉歌人大伴家持の崇敬者でもあ
ったからであろう。
また当家の遺品の中に長慶寺のものと同
様の人麻呂像が一体現存している。長慶寺
の像より小型で、首部が入込みになってお
り、背面に「南嶺作」と刻まれている。逸
峰が石見国から柿の木をもらって帰り、京
都の彫刻師南嶺なる者に作らせたものだと
いう。
内山家所蔵の人麻呂像
内山家の屋敷内には昭和の初め頃まで屋
敷神として人丸社がまつられていたそうで、
現在、正面を入って左隅にその跡らしい基
壇が残っている。
この内山家、人丸社を裏付けるものに次
のような史料がある。
『富山県神社祭神御事歴』(大正三年)は、
柿本朝臣(あそん)の神霊をまつる神社の
代表として石見国美濃郡高津村柿本大明神
社、播磨国明石郡大蔵谷山上柿本明神社を
あげ、「本県にて此の朝臣を祀れるは、婦
負郡百塚村宮尾無格社歌神社なり。明和六
年(一七六九年)内山逸峰その鎮守として
之を創祀す」と記しているのである。内山
家に伝わる人麻呂像は、十五代逸峰が明和
六年に屋敷内に創建した歌神社=人丸社の
本尊であったことになる。
人麻呂が晩年に国司の任をおびて赴任し、
没した地と伝えられる島根県益田市高津の
柿本神社、「明石の浦」の人麻呂の作歌に
ちなんでまつられた兵庫県明石市人丸町の
柿本神社は、亨保八年(一七二三年)人麻
呂千年祭にあたって、ともに正一位柿本大
明神の神階神号を授けられた。
歌会、句会を催す当時の風流人の間では、
これを機にいっそう歌聖人麻呂信奉の熱が
高まり、明和の頃、越中を代表する歌人の
一人だった逸峰も、このような世の風潮の
中で自分の屋敷内に人麻呂をまつったもの
と思われる。人麻呂信仰と越中との結びつ
きは、おそらくこの頃に始まり、その後の
長慶寺の人丸社創建についても、藩主や藩
の重臣との交際が多く、越中の文運の中心
にあった内山家が、発起人の一人となって
はたらいたと考えてもよいのではなかろう
か。
人麻呂と民間信仰
ところで梅原猛氏は、石見、播磨国の人
麿神社のほか、奈良県大和新庄の柿本神社、
大和添上郡の歌塚、櫟本の柿本寺(しほん
じ)跡を例にあげて、人麿神社が全国に七
十余りあり、その中には示現寺、影現寺の
名で呼ばれるものが多く、人麻呂ゆかりの
地には彼の霊を鎮めるため人丸塚や祠がた
いてい建てられていると述べている。
さらに、人麻呂水刑死を主張する梅原氏
は、人麻呂信仰の根底に「怨霊鎮魂」があ
るのを指摘し、歌聖人麻呂が神にまつられ
たのは、ただ歌が上手というだけではない
とされる。柳田国男がすでに『三月十八日』
という長論文で、三月十八日が小野小町、
和泉式部、平景清などいわくつきの怨霊た
ちの命日とされている日で、人麻呂の命日
もまたこの日になっている点に注目してい
るという。
つまり、憶良や家持、貫之らとちがって、
「歌のひじり」としてまつられるのは、彼
の芸術性だけでなく、不幸な死を遂げた彼
の怨霊に対する鎮魂の意味がこめられてい
るというのが、梅原氏の見解なのである。
これに関連して民俗学者の桜井満氏は、
和歌守護の神人丸が、安産や火伏の神に結
びつくことについて述べている。現に、明
石の人丸神社は歌聖としてだけではなく、
学問、文芸、安産の守護神、除火災神とし
て全国に信者がある。これは「人生ル(ひ
とうまる)・火止ル(ひとまる)=人丸(
ひとまる)」という語呂合わせにもよるら
しいが、「和歌の徳・歌の力には日本人の
生活を律するものがある。和歌の神に対す
る祈願が、和歌の上達だけに限らないとこ
ろに、民間信仰がある」
という桜井氏の指摘は、非常に興味深い。
しかしながら、越中における人麻呂信仰
については、一部上層の風流人が純粋に和
歌の神様としてまつっていた観が強い。た
だ、呉羽丘陵の製茶の起源について伝えら
れる中に、こんな記事がみえる。
「当国富山のこなた安養坊という所あり、
此地茶に宜しきとて、富山大守松平大輔(
正甫)様命を下され、茶を植えさせ給う。
今彼地の禅林に製して人丸と名付け世に賞
せらる。当国の名茶なり」(宮永正運『私
家農業談』)
とある。
富山藩の二代藩主前田正甫(まさとし)
が製茶を奨励したという安養坊は、長慶寺
のすぐ近くで、同じ呉羽山の東口にあたる。
お茶には古くから不老長寿の薬の意味があ
ったが、長慶寺人丸社に近い地で栽培され
たお茶に、霊験あらたかな「人丸」の名称
が付けられて有名になったというのは、あ
る種の除災の力を秘めた歌聖人麻呂にに対
する民間信仰の形態が越中にも広がってい
たように思われてならない。
(写真は筆者撮影)
小社発行『北陸の燈』第3号より
当講座記事NO.38再掲
第6回「現代の声」講座提言者
テーマ:私の郷土史観